12/23/2018

イヌドシ


戌年ももうすぐ終わる。今年もバタバタしていたなぁ。

2018年は、いつ行われるかわからない手術と風邪に怯えた冬に始まり、転院と引越しに追われているうちに春を迎え、真夏の猛暑の中を涼しい病院で大半過ごした入院生活を経て、身体が良くなったのを機に出かけまくった秋。

去年は自分達ではどうにもならない状況が変わってくれるのをじっと耐え忍んでいたような年だったけれど、今年は積極的に動いて願わくば良い方向に変わってくれるように、走り回っていたように思う。少しでも違う景色がみえるように。

少し前の自分の選択の結果を常に受け入れ続けるしかないのだけれど、選択というのはつくづく難しい。
優柔不断で、失敗したくなくて、ベストの結果が常に欲しいという強欲な自分には本当に難しい。
選択肢というのは実は存在しなくて、全ては定まった方向に向けて進んでいて、選択の自由は全てイリュージョンで、、、云々というものの見方もあるけれど、その話はまた次の機会に。


そして、つい最近なんとまた新しい住居が決まり、新年には真新しい生活が始まろうとしている。

10/26/2018

トヨタ



約2年ぶりに実家に帰った。今回初めて車で帰って、やっぱりここは車の街なんだなぁと思い知らされた。そんなに大きくない街のはずなのに、とにかくどこにいっても車が多い。自分も乗っているので全然全く言えた義理ではないけれど、自家用車ってつくづく自分勝手な乗り物だなぁと思う。トヨタやその近辺の街ではほとんど一人一台で乗っている。なんて無駄の多い乗り物だろう。とっても便利だし、いつも助かってるんだけどね。

まぁそれはいいや。

行き帰りの道中は小雨が降ったけれど、トヨタに滞在中はみごとに晴れた。
短時間の旅行であったし、初めての子供を連れての帰省だったので、主に家族にしか会えなかったけれど、充実した時間を過ごせた。

実家に帰って親兄弟と話していると、自分の奥の方に蓄積された、なんというか感情の自動変換機能みたいな、話し相手のある種の言動に対して、自動的に反応する自分の原理的感情の動きみたいなものを強く感じる時がある。はっきりとどんな言動に対してどう反応しているかまではちゃんと掴めないのだけれど、言葉や態度による物理的な反応をやめて自分の内なる動きを観察すると面白い。少しだけ、夢日記を書いているときの感覚に似ている。追えば追うほどつかめない。しかし全体で見ようとすれば、ぼんやりとだけれど何かしらの感触が残る。

9/30/2018

ナガツキ



涼しさのすぐあとに寒さが来て、また暑さが舞い戻ったと思ったら今度は台風がやって来て、なかなか忙しい気候だけれど、季節の変わり目の心が妙にソワソワする感じは嫌いじゃない。肌が変化を嗅ぎとる度に心がふわっと躍る。

子供の病気の事がひと段落して、今月は少し日常が手元に戻ってきた。もしくは、日常を取り戻そうと少し躍起になっていたかもしれない。人に会ったり、イベントに出かけたり。病院に入り浸っていた時の反動もあると思うけれど、まるで、もう自分たちを引き止めるものは何も無いと誰かに証明でもするみたいに(もちろん証明なんてする必要は全く無いのだけれど)、 とにかくよく出かけていた気がする。そしてその予定たちの間を埋めるみたいに仕事をしていた。

フィジカル的には少し疲れたけれど、充実していたし、やはり人に会うと(会う人にもよると思うけど)頭の中が多次元化するというか、考え方のシコリのようなものが少しほぐれる気がする。ただあまり多くの考えが入り込みすぎると、僕の場合、頭の中が騒がしくなり過ぎて、それはそれで困ることになるのだけれど。

改めて考えると、9月は僕らの日常にしては、少しアクティブに過ぎたかもしれない。少しはしゃいでいたのかもしれない。まぁそれもしょうがない。だっていろいろあったもの。

8/31/2018

オワリ








まだまだ暑い日が続くけれど、夕方などに少し夏の終わりを感じるようになった。

そんな夏の暑い午後に息子が無事退院しました。約1ヶ月の入院を経て、随分元気になりました。酸素のサポートはとれて、なんとも身軽になり、血色も驚くほどよくなった。(指先がピンク!)最後の方に少し風邪を引いて入院が長引いてしまったけど、ある意味風邪を引いても耐えられるんだなぁと、しみじみ実感できるほどよくなった。

数々の内服薬でサポートはしているけど、循環の状態はまずまず良好。今後の課題は肺動脈にあると思われる狭窄で、右室に少し負荷がかかり、その影響もあって、漏れや逆流があるところがあるので、様子を見ながら近い将来にカテーテル検査をして評価する。成長の過程で全く干渉する必要がなくなるかもしれないし、カテーテルで何か措置をしたり、あるいは手術をするかもしれない。できることなら手術は避けたいところだけれど、兎にも角にも、これまでの状況を考えたら、格段によくなったことをまずは祝福したいと思う。

起きてるとなかなか描く余裕がないので、寝ているところばかりだけれど、入院中にたくさんのスケッチを描いた。

7/28/2018

ジュツゴ

暑い日が続いてたけど、少しだけ涼しくなりましたね。
ものすごい暑い時間をくぐり抜けたあと、微妙な温度差なのに感じる涼しさが好きです。とはいえ、この夏は涼しいところにばかりいるので、暑い夏というのをいまいち体感できていない気がする。テレビでは賑やかに騒ぎ立てているようだけれど。


7月18日に無事手術を終えました。なんとか二心室修復ができ、今はゆっくりと術後のリカバリーを進めています。穴を塞いで終わりというようなシンプルな心臓ではもちろんなく。こっちを塞げばそっちに圧がかかり、その結果あっちに新しい逆流が発生するという具合に、本当に微妙なバランスの上で、人の血液循環というのは成り立っているわけで。今は新しい循環の中で、ちょうど良いバランスというものを探しています。もともとの心臓の伸縮の弱さというハンデもあるけれど、それでもしっかりと右心室左心室共に、それぞれにしっかりと鼓動を続けてくれている。顔色も見違えるように変わり、まだまだ笑顔は少ないけれど、その顔を、その目の奥に見えるものをしっかりと見つめて、焦らずゆっくり日々の生活を大切に過ごしていきたい。

6/30/2018

ツユアケ

夏が来た。

つくるくんの手術の予定は1ヶ月先延ばしになり、なんだか宙ぶらりんな気持ちのままあっという間に梅雨がおわり、夏が来た。

特にこれと言って変わったこともなく。

体調を壊さないように手術を待ち、仕事の流れを乱さないように一生懸命働き、少しずつだけれどプロジェクトを進め、ときには自堕落な時間を過ごし、週に一度はクライミングに行き、毎晩のように寝ぼけて少し混乱し、また朝起きる。
そんな毎日。

軽い睡眠不足は続いているが、文句を言っても言わなくても、また明日はやってくる。



5/28/2018

サツキ

五月。
エアコンのいらない気持ちの良い季節。
みどりの日につくるくんは1歳になり、6月の手術の予定も決まった。

難しい手術になる。
去年の11月に退院してから、毎月のように近いうちに行われると言われ続けていた手術の予定日がようやく立った。
心臓を開いてみないとわからないけれど、二心室修復できる可能性が7割と言われている。半年前は3割だった。

7割。

高い確率のようで人の人生に関わることだと思うと、とても微妙な数字。
いや、そもそも1歳児のこの先の一生に関わることをこんな確率で表されることに、なんとも言えない違和感を感じる。

それでも、もうこれ以上先延ばしにはできない。

いや、正確にはさらに時間を稼ぐという結果になる可能性が現時点で3割ある。


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これだけを読んでもよくわからないことが多いと思うのでざっくり説明すると、
つくるくんの心臓には右室と左室、右房と左房を隔てるそれぞれの壁に穴が空いている。
理想の治療法はその穴を塞ぐ二心室修復という治療法。
しかし、左心室が小さいということと、左心室の動きが弱いということ、さらに弁の形状の特異性が理由で、そこに踏み切れないでいた。

これまでの成長とその間に少しずつ効いてきた薬のおかげで、左室の小ささと動きの弱さは改善され、数値的には二心室修復にいける見込みになった。

残された問題は弁の形状。正常な心臓の場合は右と左に別々に存在する弁が壁が欠損しているために二つが合わさって一つの弁になっている。それゆえの血流の漏れ、いわゆる弁逆流が以前大きな問題となり、2度目の手術となった訳だけれど、その弁に壁を作って二つに割ったときにそれぞれがちゃんと弁として機能するかが今回の手術の鍵となる。その弁の形状の詳細は心臓を開けて見ないとわからない。エコーや以前の手術時のカルテなどから判断して、二心室に行ける可能性が現時点で7割。しかし、壁を作ってうまく動かなかったのでは困るので、実際に開いてみて、その場でさらなる検証を行って9割以上いけると判断されて、初めて二心室修復に踏み切られる。

さて、二心室修復ができない心臓はどうするのかというと、単心室修復という治療法がある。上大静脈と下大静脈を心臓から切り離し肺動脈に直接繋ぐことで、右室と左室を合わせて一つの心室として全身に血液を送る。そして全身を回った血液は心臓を介さず直接肺にいく。上大静脈の循環を切り替える手術をグレン、下大静脈も切り替えて全ての循環を切り替える手術をフォンタンと呼ぶ。この単心室修復の鍵は肺が握っている。肺に血液を送るのに心臓を介さないため、肺の血管抵抗が低く維持されることが絶対条件になっているのだ。

そして、ダウン症児は肺がとてもデリケートなため、この単心室修復に根本的に向かない。この肺の血管抵抗を守るために、生まれて1週間後の最初の手術で肺動脈を絞扼し、壁の欠損や弁逆流によって肺に血が流れ過ぎないようにしていた。そして現在、生後1年経ち、体が成長したためにこの絞扼がきつくなりすぎて、肺への血流が少なく成り過ぎたので、何はともあれこの絞扼は近いうちに拡げなければいけない。今回の手術で、もし二心室修復が行われなくても、この絞扼に関しては何かしらの措置が行われる。

現時点の肺の血管抵抗をみると、やはりグレンはともかくフォンタンは厳しいだろうとみられている。

転院する前の病院では、二心室修復は無理だと診断されていたため、すぐにでもグレン手術を行うということになっていた。そしてこれまで受け持ったダウン症児でフォンタンまで行ったケースは一人もいないと、その時の担当外科医には説明されていた。グレン手術のみでも、血液循環はかなり回復する。そうやってフォンタン待ちをしているダウン症児が少なくない数いる。だが、どうしても古い血液と新しい血液が混ざってしまうため、チアノーゼが残り、成人するころには他の臓器に支障をきたし、長く生きられないことが多い。

今の病院では、ダウン症児の場合、最終的にそれしかないというところまで追い詰められないと単心室修復は行わない。それでも、成功例はあると聞いている。きっとそのためにはまだ説明を受けていないオプションや治療プロセスがあるのだろう。

二心室修復ができる可能性が7割。壁は作らず、絞扼だけ拡げる可能性が3割。壁は作るが、弁の形状的に完全に閉じるのが危険だと判断された場合、微妙に隙間を残すことで、なんとか循環が成り立つようにする可能性もあると聞いている。その場合は、成長の過程でその隙間が問題になった場合にまた次の対策が考えられる。今後、家庭での酸素補助がいるかどうかも、その隙間を含めた循環の形による。

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7割。
確率っていったい何だろう。
手術の日、一体どんな気持ちで結果を待てば良いのだろう。

4/29/2018

39


新緑が綺麗な季節になりましたね。

先日39歳になりました。
38歳は今までの人生で一番辛く、一番幸せな年だった。
39歳はもう少しだけ熱いところと冷たいところが混ざってくれるといいかなぁ。


久しぶりの検査入院も、滞りなく終わり無事に帰ってきた。
いろいろチューブがつながった姿はやはり少し仰々しく見える。しかし、去年の入院中はもっともっといろいろ繋がっていた。
もうすぐ1歳。随分と大きく強くなってくれた。少し前に先生によくここまで育てましたねと言われたのは嬉しかった。酸素が足りないと、なかなかちゃんと育たないらしい。
チューブのつながった姿はもう結構見慣れてしまったけれど、慣れていない人がびっくりしているところをみると、あぁそうだったなと思う。


前から何度も言っていることだけれど、ほんとうに人は何にでも慣れるし、何にでも飽きる。そうやって脳は常に新しい刺激を求め、脳内の神経細胞が死なないように活性化しつつ、また逆に強すぎる刺激にも耐えうるのだ。




3/28/2018

引越しとか、結婚記念日とか、桜とか

引越しをしました。
子供の病院を変えることになって、その近くに。
今までと比べれば辺鄙なところですが、なかなかにいいところです。
自然もあるし、良い散歩道も神社もあるし、近所の公園にリスもタヌキもいるし。
これで子供の入院のことなどに必要以上にびくびくすることなく、穏やかに暮らせたらなと思います。

前よりも海に近づいたので、先日結婚記念日に海まで家族3人ドライブに行ってきました。ごみごみした日本の夏の海は苦手ですが、シーズンオフの海は好きです。
ひらけた景色を見ると、心に何かしらの変化が起きますね。
久しぶりに海風にあたって、帰った後は3人ともぐったり、夜はよく眠りました。


アメリカの市民ホールで結婚して丸10年経ちました。
今までもわりと仲良く楽しくやってきましたが、去年家族が一人増え、より強く楽しく日々を過ごせていることに感謝です。あと40年金婚式を目指して頑張ります。

桜が綺麗に咲いています。


2/18/2018

美術部第25回:テクスチャ



マルカフェ美術部、今回はtexture(質感)についてのミニ講座をやりました。

数ヶ月前に、干支(戌)を描くという会があって、それに合わせて動物を描くにあたって大切な質感についてやりたいと思い立ったのが始まり。といっても、これまでにやった講座に比べて特にシステマティックな知識や技能を知っているわけではないし、技術的に言えば、Structure、Value、Lineの組み合わせで質感は表現する事ができるわけで。それよりも、もう少し哲学的なことを話したい。さてどうしようか、と考えた。


あえて物語に例えて説明しよう。


まず、Structureが、物語でいうところのあらすじやプロットにあたる。細かいことは抜きにして骨格として何が起こっているのか。起承転結の大筋として、対象が何物で、どうそこに存在し、どう展開するのか、主観ではなく客観的事実を構成する。

Valueは演出といったところ。光と陰を使って、その物語りのムードを演出する。同じ出来事でも、違う演出でガラリと印象は変わる。因みに色もValueの一種として考えている。

Lineは文体のようなもの。同じあらすじと演出でも、言葉の響きやリズムで、ニュアンスがかわり、作り手の個性が出る。

そしてTextureは、この物語に出てくる登場人物、キャラクターだ。どのような血筋をもち、どのような生い立ちで、その質感を持つことになったのか。例えば、殺人事件の物語の中で、被害者はどんな人物であったのか。どのような親の元に生まれ、どのように育ち、どのようにして事件に関わるようになったのか。そんな細かな質感は物語に深みを与えるように思う。そんな風に考えると、textureとは何かが見えてくる。

そして、それを実際に描くとき、そのtexureを100%正しく再現することはそんなに重要ではなくて、その生い立ちに想いを馳せること、そんな対象に対する愛情のこもった時間にこそ、意味があると思ったりする。

演出を邪魔しないように、相対的な影の重みはある程度維持する必要はあるが、わりと自由に楽しくtextureを描き込んでいくと、活き活きと面白みのある絵になっていくと思う。またtextureを描き込むことは、わりと時間のかかる作業であることが多いので、我慢強く怖がらず自分を信じて没頭することもわりと大事な要素である。もしうまく描けないのだとしたら、それは結局のところ思い描けていないからかもしれない。そのモノの持つ質感を思い描けていたら、時間はかかってもいずれはたどり着けるんじゃないか、そんな気がするのだ。












1/03/2018

イヌ


あけましておめでとうございます。

相変わらず、いつも何かを追いかけています。

ぴたっと30分ぐらい時間の止まった世界がやってきたりしないでしょうか。

きっと貧乏性の自分は、その貴重な時間をどう有意義に過ごすかを考えるのに精一杯で、結局何もしないで、ぐるぐる思考の中を彷徨ってしまいそうです。

それはそれでとても有意義な気もします。

今年もどうぞよろしく。