1/31/2017

美術部第13回: 墨絵とコンストラクション










今回は墨絵の回でした。書道を習っている部長のナカノさんの指導のもと、今回もとても楽しく自由に絵を描かせて頂きました。墨は水彩ともアクリルともまた違った滲み方、乾き方をするようで、その奥深さと難しさに程よく翻弄されたました。墨は一度塗られてしまった箇所は、消すことも重ねることも難しいので、もっと空白を意識した制作が必要だったなと思いました。新しいメディアは脳が開く感じがして気持ちがいい。呆然と手が止まってしまう時間が多かったけれど、楽しかった。写真など詳しくはマルカフェのブログにて。


さて、今回から活動のはじめの30分ほどをもらって簡単なドローイング講座なるものをさせて頂きました。自分のもっている知識を共有することで、自分自身の中にある情報を整頓しつつ再確認し、またこれを機に、他の人の持つ知恵なども少しずつ吸収できたらというのが、個人的な狙いです。

実際の講義の内容も同じくマルカさんの書いた文章がとってもわかりやすく読みやすいのでそちらを参考にしていただくとして、今回説明したConstruction または Structureとも呼ばれる描き方を、学校で学んだ時の絵が写真として記録されていたので、そちらを公開します。対象を面で捉えて、シンプルな立体的図形として絵に落とし込んでいくという手法です。下がGestureと呼ばれるもので、30秒ぐらいの短い時間に、対象のエネルギーの流れを読むというような見方を訓練するための手法。どちらも、なんともう15年も前の絵。なつかしい。

これからこのような形で自分のもってる知識を少しずつ共有していきたいと思ってるわけですが、そしてこれは個人的にとても大切だと思っていることなのですが、これらの知識は所詮知識なので、これによって硬くなりすぎないといいなと思います。スポーツ選手がフォームを改善しようとして硬くなってしまうことがあるように、意識的に知識に合わせて体を動かそうとすると自然と体は硬くなってしまいます。ダンサーが繰り返し繰り返し練習をして、最終的には無意識から導き出される自然な動きに、観る人が心を動かされるように、絵もこれらの知識はあくまでガイドの一つで、これらを経験を伴った知恵として体になじませ、いざ自由に好きなように描くという時に、潜在的な心を開く助けにならなければ意味がないなと思うわけです。別にみんなに同じように絵を描いて欲しいわけでもないし。まぁ要するに絵を楽しく描く助けになればいいんですけれど。









1/23/2017

キセイ


只今実家に帰省中。
実家って暇だ。日常の枠組みから外れて、突然やってくる豊潤な時間。
そして、ちょっと近所を歩き回ると、過去の記憶を呼び覚ますスイッチがあちらこちらにあって、あぁ、あの時は本当に自分の事で精一杯だったのだな、と甘酸っぱい記憶に浸り、なんだかんだで自分も大人になったなぁと思う反面、また50歳くらいになった時には、今の自分がどれほど小さい人間かを思い知るのだろうかと、思わずあたりを見渡してしまう。

こんな37歳になるとわかっていたら、もうちょっと余裕を持って生きられたのになぁと思うけれど、知っていたらつまらないし、努力も怠って、今いる地点にはたどり着けないわけだから、よくできている。

みんな与えられたものの中で一生懸命工夫をしてなんとかやっている。時間もお金も能力も物質も。その工夫に愛を感じる。環境は人それぞれ違う。平等でもない。生まれる地も家族も選べない。人に会っていろんな話を聞けば聞くほど、みんなそれぞれになんとかその与えられた環境の中で、もがき、生きているとわかる。できるならばより良いところへ。僕らに埋め込まれた完全になろうとする欲と、"我ここにあり"という自分の存在意義を求める力に振り回されながら。つまるところ、行為そのものに善悪はないのだなとつくづく思う。その時代時代の社会的なルールやモラルはあるし、社会で生きていく以上、それはとても大切なことではあるけれど、個人的なレベルで言えば、極端な話、人殺しだってなんだって、行為そのものからその善し悪しは判断できないのではないか。それよりも、その行為を呼び起こした潜在的な心の方向性こそが大事なのではないかと思う。それを表面的な行為だけを指摘して争いあっていても消耗するばかりで何処へも行けない。まぁ争いもある意味では必要なエネルギー発散の方法で、こうなるように定められていると言えばそうなのだろうけれど。


昔よく遊んだラクガキだらけの遊具がぽっかりなくなった公園の丘や、実家で丸くなる21歳の化け猫を見ながら今日も物思いに耽る。そして、あいかわらず、自分の欲望は底なしだなと、怖くなる一方、生きる力の強さに期待も膨らむ。






1/07/2017

ジカン



少し前に書いた好きになるということは選べないとか、意志の力とか愛とかの話の続きを少し。

キーワードは時間。
ちょっと大掛かりな話になってしまうけれど、時間とは神様がすべての生きとし生けるものに平等に与えてくれる愛、もしくは神様とは時間そのものなんじゃないかと思ったことが少し前にあって、今でもよくそう思う。
わりと多くの物事を時間は解決してくれる。悲しい出来事も辛い気持ちも、もちろん嬉しいことも楽しいことも、時間がたてば過去の出来事となり、ボヤけていって、いずれどうでもよくなる。だからこそ、どうしても時間だけではどうにもならないことは、しっかりと自分で向き合わなければならないのだけれど、とにかく時間さえ立ってくれれば、その間なんとか暮らしを続け、生き延びることができれば、たいていの物事はなんとかなる。ということをある程度生きていて学んだ。

時間さえ動いていてくれれば大体なんとかなるのだ。
特に辛い時、視野はどんどん狭くなっていって、このままずぅっと辛いのが続くんじゃないかという気になるが、そんなことはない。時間が経てばその辛さに慣れることもあるし、辛さの原因自体がなくなることも多い。
それで、時間の動きを、世界の変化を、どうすれば一番実感できるかと考えてみると、そもそも頭の中の思考は、時間が動いてなければ動かない。つまりは、どんなに辛い思いの中にいても、そこに思いがあるということ自体が時間が動いていることの証であると言える。
そう思うと、すぅーっと肩の力が抜けて、そうか、何もしなくても、こうやって時間が動いているのだから、僕は大丈夫だと思うことができる。一種の暗示のようなものだと思うが、宗教などで愛を語るのも基本的には同じ原理だろうと思う。自分の思いや感情の中に、神様の存在を、その愛を感じることで、満たされ、救われるというわけだ。僕が季節の変わり目や、水の流れや、木の葉や花びらが舞うのをみるのが好きなのも同じ理由かもしれない。

時間をかければいいというわけではないが、時短にこだわれば愛情は希薄になるし、時間に余裕があれば込められる愛情も、焦って余裕がなくなれば疎かになる。やはり、愛と時間は密接に関係しているのだ。

宇宙が広がり続けているから、時間が前に進むという考え方があるらしい。宇宙全体が神様そのものだとすれば、神様は大きくなり続け、その中で僕たちは動き、感情や思いも動く。
そうしてその時々の思いが、心のずっと奥の方にある説明のつかない思いが、人を動かし、縁を結び、時代を動かしていく。そこには人間に意識や意志が生まれるずっと前から潜在意識に埋め込まれた何かとてつもなく大きな力が関係しているのかもしれない。


今この瞬間何を好きになるかは選べない。それはその瞬間に至る前に決まっている。それを理屈が勝手にあとから付いてまわっているのだと思う。
であるからこそ、今好きな物や人を、それを共有できる人たちをとても愛おしく、大切に思う。
若い時、まだ自分という存在を手放しに委ねられる人に出会う前は、好きになった気持ちをどうすればいいのか分からずに混乱した。自分が男だということも少なからず関係しているかもしれないけれど、とくに自分の性欲にはいつも惑わされ、人を傷つけ、同時に自分も傷つけてきたように思う。今は男でも女でもあぁこの人は好きだなぁと思ったら、その先のゴールのようなものを必ずしも目指す必要はないし、大人として一定の距離は必要だと思うけれど、素直に大切に接することができる。怖がらずに、自分はあなたのことが好きですよ、と行動に表してもいいんだと少しずつだけれど思えるようになった。それが次の縁を生み、時間を推し進め、世界を変化させ続けていくのだ、と思えるから。

1/02/2017

トリドシ

あけましておめでとうございます。


2017年は今までに少しずつ植えてきた変化の種が、大きなうねりを持って全てを巻き込みながら飛び出してきそうな予感です。楽しみでもあるし、怖くもある。


しかし、日本に帰ってきて丸3年経ち、同じところをぐるぐるしながらも、生活のリズムというか、枠組みというか、多少の変化や揺れに対応出来る土台のようなものが、少しはできたんじゃないかと。これから、どんなに忙しくなっても、自由な心を亡くさずに、時間を味方にしていけたらいいなと思います。


2006年の戌から始まった干支の絵もやっと一回り。十二支揃いました。さて2周目はどうなることやら。