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12/29/2019

ネンマツ

大掃除とか家の片付けとか溜まっていたタスクとか、いろいろ終わらせることのできたプロダクティブな師走だったけれど、今年完成を目標にしていた肝心のプロジェクトは終わらなかった。

本当の意味での制作は間があくとどうしても億劫になる。これのどこがそんなによかったんだろうと、少し前の自分に疑問が湧き、自信をなくし、土台から立ち上げ直さなくちゃいけなくなる。そして身の回りのこととか、実質的な仕事とか、手につくことから片付けようとしてしまう。1日中向き合っても全く進まないこともある制作に時間を費やすよりも確実に終わることからやっていた方が、そりゃ気が楽だもの。

いつまでも逃げていちゃ何も前に進まない。でも、それでもいいと思えるようにもなった。

10/31/2019

インクトーバー



Inktober...
Ink とOctoberをくっつけた造語で何年か前から10月になるとよくみるハッシュタグ。要はモノクロインク(デジタルも◯)の強化月間みたいなものだ。できるだけコンスタントに同じ間隔で描くことで良い習慣を身につけようというわけで、友達もわりと多く参加しており、今まではなんとなくみているだけだったけれど、いいなぁと思う絵をみかけてインスピレーションを感じたので、えぃっと参加してみた。

やっぱりというかなんというか、習慣からくる面白さみたいなものがある。自分は1日置きに奇数日だけ描いていたんだけど、続けるうちに身軽さが生まれ、考え込まずにひょいっと出てきたアイデアを、身体に馴染んだラインで軽快に描く楽しさがあった。

気になる人はinstagramへGo!

5/27/2019

2と5

今月つくるくんが2歳に、クレアが5歳になりました。



まだ許可がおりてないから画像はつけられないけど、自分の制作したイラストを載せた大きな広告トラックが、銀座松屋周辺を今走っています。
5月30日まで午後12時頃から5時頃の間だそうです。
銀聯カードの中国語広告で、浮世絵風のイラストだよ。


この絵もなかなか大きかった(横10メートルくらい)けど、これとは別にもうすぐ自分史上いろんな意味で最大の絵が完成する。そのおかげで忙しすぎて残念ながら今銀座には行ってられない。発表をお楽しみに。

4/26/2019

40




もう少しで自分の誕生日を忘れてしまいそうだった。
毎年この時期になると自分の年齢がよくわからなくなる。
40になるのか、40だったのか。


40になったのだ。ものすごく大人だと思っていた年齢に自分がなっても急に何かが変わるわけでもなく、しかし時間は着実に前に進み、感情は日々の生活に吸収されていく。平穏を望んではいるけれど、停滞したくはない。不安も不満も心配もそこそこあるけれど、まずまず充実した生活を送ることができていると思う。望まなければ前に進めないが、しかし望めばきりがないわけで。いつも何かのハザマを行ったり来たり、なんとかうまくステップを踏めているのだろうか。

おめでとう、自分。
生きているだけで立派だと思えるようになった。


3/11/2019

ハル



忙しいと思っていても、ひとつの用事が済んでみると、あれ?そうでもなかったなと思うことがよくある。その逆もまた然り。

わかってはいても、感情と感覚で生きているのだなと痛感する毎日。
たった今自分が感じているものは、この瞬間の自分の真実の断片だと思うけれど、その中に存在する未来も過去もすべて嘘なのだ。その時の感情が未来とか過去の情景を使って自分自身に今の自分の感情を知らせてくれているだけ。しかもその自分のものだと思っている感情には実はまわりの人や社会の思いが入り込んでいたりする。

なんだかわかりにくい話になってしまったけれど、そんなわかりにくい話をうだうだぼーっと考えたくなる季節になってきた。








7/28/2018

ジュツゴ

暑い日が続いてたけど、少しだけ涼しくなりましたね。
ものすごい暑い時間をくぐり抜けたあと、微妙な温度差なのに感じる涼しさが好きです。とはいえ、この夏は涼しいところにばかりいるので、暑い夏というのをいまいち体感できていない気がする。テレビでは賑やかに騒ぎ立てているようだけれど。


7月18日に無事手術を終えました。なんとか二心室修復ができ、今はゆっくりと術後のリカバリーを進めています。穴を塞いで終わりというようなシンプルな心臓ではもちろんなく。こっちを塞げばそっちに圧がかかり、その結果あっちに新しい逆流が発生するという具合に、本当に微妙なバランスの上で、人の血液循環というのは成り立っているわけで。今は新しい循環の中で、ちょうど良いバランスというものを探しています。もともとの心臓の伸縮の弱さというハンデもあるけれど、それでもしっかりと右心室左心室共に、それぞれにしっかりと鼓動を続けてくれている。顔色も見違えるように変わり、まだまだ笑顔は少ないけれど、その顔を、その目の奥に見えるものをしっかりと見つめて、焦らずゆっくり日々の生活を大切に過ごしていきたい。

4/29/2018

39


新緑が綺麗な季節になりましたね。

先日39歳になりました。
38歳は今までの人生で一番辛く、一番幸せな年だった。
39歳はもう少しだけ熱いところと冷たいところが混ざってくれるといいかなぁ。


久しぶりの検査入院も、滞りなく終わり無事に帰ってきた。
いろいろチューブがつながった姿はやはり少し仰々しく見える。しかし、去年の入院中はもっともっといろいろ繋がっていた。
もうすぐ1歳。随分と大きく強くなってくれた。少し前に先生によくここまで育てましたねと言われたのは嬉しかった。酸素が足りないと、なかなかちゃんと育たないらしい。
チューブのつながった姿はもう結構見慣れてしまったけれど、慣れていない人がびっくりしているところをみると、あぁそうだったなと思う。


前から何度も言っていることだけれど、ほんとうに人は何にでも慣れるし、何にでも飽きる。そうやって脳は常に新しい刺激を求め、脳内の神経細胞が死なないように活性化しつつ、また逆に強すぎる刺激にも耐えうるのだ。




3/28/2018

引越しとか、結婚記念日とか、桜とか

引越しをしました。
子供の病院を変えることになって、その近くに。
今までと比べれば辺鄙なところですが、なかなかにいいところです。
自然もあるし、良い散歩道も神社もあるし、近所の公園にリスもタヌキもいるし。
これで子供の入院のことなどに必要以上にびくびくすることなく、穏やかに暮らせたらなと思います。

前よりも海に近づいたので、先日結婚記念日に海まで家族3人ドライブに行ってきました。ごみごみした日本の夏の海は苦手ですが、シーズンオフの海は好きです。
ひらけた景色を見ると、心に何かしらの変化が起きますね。
久しぶりに海風にあたって、帰った後は3人ともぐったり、夜はよく眠りました。


アメリカの市民ホールで結婚して丸10年経ちました。
今までもわりと仲良く楽しくやってきましたが、去年家族が一人増え、より強く楽しく日々を過ごせていることに感謝です。あと40年金婚式を目指して頑張ります。

桜が綺麗に咲いています。


1/03/2018

イヌ


あけましておめでとうございます。

相変わらず、いつも何かを追いかけています。

ぴたっと30分ぐらい時間の止まった世界がやってきたりしないでしょうか。

きっと貧乏性の自分は、その貴重な時間をどう有意義に過ごすかを考えるのに精一杯で、結局何もしないで、ぐるぐる思考の中を彷徨ってしまいそうです。

それはそれでとても有意義な気もします。

今年もどうぞよろしく。

4/15/2017

じゃず


最近はスケッチはもっぱらInstagramで、告知はfacebook。このブログは文章を書きたい時用に特化させようと思っているのだけど、文章を書くのはなにぶん時間がかかるので、アップする頻度がぐんとおちてしまった。それでも月に一度くらいはちょこちょこっと何かしら書きたいと思っているのだけれども、もうそろそろ前回のPostから1ヶ月。あいかわらず日頃から頭の中はいろいろなことでいっぱいなのだけどね。いざ文章で書こうと思っても全然まとまりません。ありがたいことに仕事は順調だし、生活も安定してる。欲をいえばもうちょっと何もしない時間があるといいかなと思うけれど、やりたいと思うものごとはよく重なる。限られた時間の中で、自分のやりたいことが自分自身を取り合って引っ張りあっている。時間は限られている?物理的には一方方向に皆平等に均一に進んでいるようにしか、少なくとも人間には感じられないし、表現することができない。実際は感情や精神によって無限の方向性や密度をもって存在しているようにも思うけれど、それについてはまたいつかじっくり書いてみたい。兎にも角にも時間はうまく味方につけておきたい。


1/23/2017

キセイ


只今実家に帰省中。
実家って暇だ。日常の枠組みから外れて、突然やってくる豊潤な時間。
そして、ちょっと近所を歩き回ると、過去の記憶を呼び覚ますスイッチがあちらこちらにあって、あぁ、あの時は本当に自分の事で精一杯だったのだな、と甘酸っぱい記憶に浸り、なんだかんだで自分も大人になったなぁと思う反面、また50歳くらいになった時には、今の自分がどれほど小さい人間かを思い知るのだろうかと、思わずあたりを見渡してしまう。

こんな37歳になるとわかっていたら、もうちょっと余裕を持って生きられたのになぁと思うけれど、知っていたらつまらないし、努力も怠って、今いる地点にはたどり着けないわけだから、よくできている。

みんな与えられたものの中で一生懸命工夫をしてなんとかやっている。時間もお金も能力も物質も。その工夫に愛を感じる。環境は人それぞれ違う。平等でもない。生まれる地も家族も選べない。人に会っていろんな話を聞けば聞くほど、みんなそれぞれになんとかその与えられた環境の中で、もがき、生きているとわかる。できるならばより良いところへ。僕らに埋め込まれた完全になろうとする欲と、"我ここにあり"という自分の存在意義を求める力に振り回されながら。つまるところ、行為そのものに善悪はないのだなとつくづく思う。その時代時代の社会的なルールやモラルはあるし、社会で生きていく以上、それはとても大切なことではあるけれど、個人的なレベルで言えば、極端な話、人殺しだってなんだって、行為そのものからその善し悪しは判断できないのではないか。それよりも、その行為を呼び起こした潜在的な心の方向性こそが大事なのではないかと思う。それを表面的な行為だけを指摘して争いあっていても消耗するばかりで何処へも行けない。まぁ争いもある意味では必要なエネルギー発散の方法で、こうなるように定められていると言えばそうなのだろうけれど。


昔よく遊んだラクガキだらけの遊具がぽっかりなくなった公園の丘や、実家で丸くなる21歳の化け猫を見ながら今日も物思いに耽る。そして、あいかわらず、自分の欲望は底なしだなと、怖くなる一方、生きる力の強さに期待も膨らむ。






1/02/2017

トリドシ

あけましておめでとうございます。


2017年は今までに少しずつ植えてきた変化の種が、大きなうねりを持って全てを巻き込みながら飛び出してきそうな予感です。楽しみでもあるし、怖くもある。


しかし、日本に帰ってきて丸3年経ち、同じところをぐるぐるしながらも、生活のリズムというか、枠組みというか、多少の変化や揺れに対応出来る土台のようなものが、少しはできたんじゃないかと。これから、どんなに忙しくなっても、自由な心を亡くさずに、時間を味方にしていけたらいいなと思います。


2006年の戌から始まった干支の絵もやっと一回り。十二支揃いました。さて2周目はどうなることやら。


12/31/2016

サルトシ

2016年もあとわずか。
いろいろ書きたいことがいっぱいあったのだけれど、時間がなくなってきたし、最後くらい少しゆっくりしようと思うので、また次の機会に。

2017年も引き続き宜しくお願い致します。

12/06/2016

美術部第12回:Still Life

Still Life(静物画)を描こうということで、参加者おのおのに好きなものを持ってきてもらって、テーブルの上にランダムに並べて描きました。

好きなものを描く、というのは僕が絵を描く上で一番土台にしているもの。子供が恐竜だったり、車だったり、女の子だったりを描くのと同じで、自分が何かを好きだと感じた時に、絵を描くという行動が、一番体にしっくりと馴染む。よく見て、認識して、自分というフィルターを通して記録する。逆にいうと、描くという行動を通して、その対象に対する自分の感情を実態を伴った何かとして認識することができる。

またよく思うのだけど、自分が今、何が好きかというのは、自分の潜在意識に結びついていて、好きな理由を理屈的に並べることはできるけれど、結局は好きという感情が先に起こり、あとから意識がそれを正当化しているような気がする。もともともった自分の特性とか、そこに至るまでの記憶の積み重ねが、何を好きになるかを意識するよりも先に選択しているんじゃないか。意識して未来に好きになるように努力することはできるけれど、現時点で好きなものは理屈をともなった意識の選択ではないと思うのだ。

そして、僕たちは思った以上に好きなものでできている。好きなものは正しくみえるし、美しくみえる。好きなものを共有することで、自分自身を共有し、それを否定されれば少なからず傷つく。好きな人が好きなものを好きになり、自分が好きなものと同じものが好きな人を好きになる。そうやって好きの範囲は広がり、その輪の外のものは、興味自体がないか、醜く見えたりする。そうやって好きとか嫌いが世の中の見え方を色付けしていくのに、もともとの感情は常に変わり続ける。好きだと思っていたものにもいずれ飽きがくるし、嫌いだったものでも距離を置けば懐かしく感じたりする。

一方、愛とは意識を伴った選択だ。極端に言えば嫌いなものだって愛することができるわけで、いわば自分の変わり続ける潜在的な感情に対する意思の決定の表明のようなもの。人を、何かを本気で愛することは、好きで居続けることではない。変わり続ける自分の感情を理解し、それでも、注意深く耳を傾け、時間を分かち合い、受け入れ続ける覚悟を持つということだ。そして、好きだという気持ちに意識の力が上乗せされた時の浸透力は凄まじい。


気がつけば熱くなりすぎて絵を描くということから話がすっかりそれてしまったけれど、でも、そんなに関係ない話でもなくて、僕が絵を描くということは、自分が好きだと思ったものに対する愛情表現なのだということが、ここ数年でやっとわかってきたんです。

そんなことを思った美術部第12回。みんなそれぞれに何かを感じて何かを残してくれたんじゃないかと。

11/30/2016

クリエイティブなヒト


気がつけば、もう11月も終わる。
棕櫚への投稿で結構満足してしまって、最近は告知ばかりで文章というものを書いていなかったなと思い立ち、急に書きたくなった。といってもあまり時間もないので、短めに。

近頃、何かと会話に出てきたりでよく考えていること、クリエイティブであるということについて考えてみる。当たり前の前提として、あくまでこれは言葉の定義の話であるので、個人的な解釈に過ぎないということを一応言っておきます。


さて、クリエイティブであるとは、どういうことなのか。もちろん、イラストやデザインといった一般的なクリエイティブな仕業をしている人のことを言いたいわけでは全然なくて。もっと僕の好きな哲学的な話。
いろいろ考えてみたのだけれど、一つの考え方として、僕の思うクリエイティブな人とは、根源的な自由というものを認識することができて、その上で様々な傾向や反動や思い込みから解放された一歩を踏み出そうとしている人、と仮定してみる。


例えば、単純に絵を描くという行動。白いキャンバスがあり、画材は自由に選ぶことができるとする。そこに何を描くかは完全に自由。形も色も、言ってしまえば白いキャンバスである必要もなければ、実は全く何もしなくてもいい。そこには完全なる絶対的な自由がまずある。ということを、本質的に体感し、理解するきっかけが生まれる。はじめはその無の空間の大きさに圧倒されるかもしれない。不安でたまらなくなるかもしれない。いつも何かの限界によって制約されていた中で求めていたはずの自由というものの圧倒的な重さや残酷さを痛感する。その自由を目の前にして、自分の存在が確認できない不安にかられる。自分はその無の一部であり、そのものだ。その自由という空間と同化してふわふわと漂っている。しばらくすると、ふと自分の好きなものや人、自分に与えられた能力、その絵を見てくれる人、今までに描いたことのあるものや、見たことのある絵、憧れの画家や、心を揺さぶった情景といった自分という存在をこの世界に繋ぎ止めていた、地面や壁や天井、いわば自分の心の部屋とでもよべるようなものが見えてくる。それはこの世界に自分が存在しているという安心感を与えてくれる。その自由な空間から離れ、自分で定めた自分という存在の限界が、真っ白に圧倒的に目の前に立ちはだかる無の中を進んでいくための力強い道しるべになる。しかし、その道しるべをよくみると、これまで自分を振り回してきた傾向や反動が数多く含まれていることに気づく。やはり自由でありたいと思い返し、踏みとどまってもう一度真っ白のキャンバスを眺めてみる。どうすればいいかわからない。しかし、どうにか進まなくてはならないということだけは、なぜだかはっきりとわかる。その悪戦苦闘の中で、踏み出そうとしている一歩が、クリエイティブな行動であると、僕は思う。結局、その一歩もある傾向の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、心のずっと奥の方、自分の部屋の深くに隠された扉から、世界の核のようなところに直接つながっていて、それは世界の全てを密かに繋ぎ、そこには白いキャンバスに何を描けばいいかがしっかりと記されているような気がする。

そして、こんなクリエイティブな行動をとっている人は、世界のいたるところで様々なことをしていて、それぞれが少しずつそのつながりを広げて行っているように感じる。僕もそんなクリエイティブな人になりたいなぁ。

10/07/2016

アリとキリギリスの話



ある日、神様に地球の破滅を頼まれた悪魔が
この世界にやって来た。
何も知らずにせっせと働くアリに

「ねぇ、明日世界は燃え尽きてしまうから、
キリギリスのように最後くらい気楽に過ごしなよ」

と、教えてあげた。
次の日、すっかり燃え尽きてしまった世界の果てで、
懲りずにぴょんぴょん
飛び跳ねてばかりいるキリギリスがいたので

「ねえ、明日世界は凍りついてしまうから、
アリを見習ってちょっとは蓄えてみたら。」

と、言った。そしたら、

「アリはせっせと働いてる時に、
キリギリスはぴょんぴょん飛び跳ねてる時に、
一番幸せを感じるように作ったんだよ。」

と、神様に怒られた。



最近たくさん文章を書いていて、ふと思いついた話。


8/01/2016

おタカさん

木綿とおばあちゃんの大切な大切なひと時。
木綿のお姉ちゃんが写真に撮ったものを大事に使わせてもらいました。
多くの人に心に響くと言ってもらい、一層嬉しい一枚となりました。
96年も生き抜くってどういうことなのか僕にはまだまだ全然想像つきません。

6/19/2016

チチノヒ

父の日ですね。
愛する野菜を見つめる少し疲れた顔。
日本に帰ってきた大事な理由の一つに家族との距離感がある。

自分と妻の家族を知ることは自分と相手とその関係を知るのにとても大きな手助けになる。その距離感はそれぞれの時代や環境に合った距離があると思うし、家族と呼ばれる存在のあり方もそれぞれあると思う。飛行機で12時間ぐらいかけて数年に1度くらい会えるのが丁度いい人もいれば、毎日会って確かめたいことがあるかもしれない。

16歳で寮生活を始め、19歳でアメリカに渡ってしまった僕は、自分のことで精一杯で30歳も半ばを過ぎてやっと自分の家族に正面から目を向けられるようになった。毎日10時間10日間も瞑想をしに行った時も、家族のことに一瞬でも想いが至ったのは全てが終わって何気なく歩いている時にふと、あ、そういえば、と思うだけだった。
自分の存在をまるっと受けれてしまった時、それまで大嫌いだった父も一緒に全部飲み込んでしまったような不思議な感覚があって、憎悪は跡形もなく消えて、これまで積み上げてきた自分の歪んだ傾向と習慣と、向き合うべき現実だけ残ってた。

帰国して2年半。父親は変わらず元気そうに畑仕事に精を出している。自分も相変わらず自分のことに大忙しで、日々の大半は家族のことなど忘れて、同じ日本に住んでいても、自分の家族に会うのは年に2回もあればいいほうだ。
それでも、この2年半で、ずいぶん多くのことを自分や妻の家族に教えてもらえたように思う。

6/06/2016

パノラマ

ひと月ほど前に新しく入手したペンを試しに近所の多摩川台公園へ行った時の絵。ペンの走りがとても心地よく、気持ち良くスケッチを終えることができたのだけど、後で見たら自分の筆圧でペン先が結構潰れ、このあとすぐに使えなくなってしまった。筆圧が強すぎるのも問題だけど今更簡単には治らないし、残念ながらこのペンは次は買えない。残念。

描き心地って描く気分に影響するし、その気分は線の雰囲気を変えてしまうと思うから、なかなか大事な要素です。世の中理屈で構築されてるものがこんなにも増えたのに、なんだかんだ言って、概ね人の気分や感情で動いてるからややこしい。

5/24/2016

美術部第8回:御嶽山神社

今回のマルカフェ美術部はマルカフェ真裏の御嶽山神社にて。
真夏日の木陰で、気の抜けた鳩の声と、今にもその辺から飛び出してきそうな近所の保育園児の遊び声を聞きながら、今日も日本は平和だなぁとしみじみ噛み締めるようにスケッチを楽しんだ。いつもよく一人でやっていることを、いつも通りのリラックスした心で(靴まで脱いで)、でもふと横を見ると、気づけばもう8回目になる美術部部員がそれぞれの場所を見つけて各々に描いている。自分の描いた絵を見てもらうのも楽しみで、またそれぞれの捉える世界を見せてもらえるのも楽しみだなぁと思いながら、黙々と描いていた。講評時、タバコの灰まで画材にしてしまうマスターの自由な創作性が特に印象的でした。


実は前夜知り合いの結婚式の二次会で、渋谷という不慣れな街で珍しく遅くまで飲んでいて、二日酔いというほどでもなかったけれど、ふわっと気の抜けた状態で、暑い陽気も手伝ってなんだか夢見心地な時間でした。