11/01/2017

Figure Drawing #65





また下丸子のクローキーに行って描いてきました。大きめのクロッキー帳が切れていたのに新調するのをすっかり忘れていたので、A5サイズのいつものスケッチブックに鉛筆で描いたり、ペンで描いたりした。
アメリカ人(おそらく白人)とのハーフの方で、顔つきはもちろん、身体つきも少し違い、アメリカでクロッキーに行っていた時を少し思い出した。西洋で絵描きの基礎を学んだからなのか、アジア人よりも気持ち描きやすく感じる。目鼻立ちの整った描きごたえのある顔で、顔を描くのが楽しかった。

10/31/2017

ソノゴ

つくる君のその後をアップデートしよう。(長いよ)

前回書いたのが8月3日で、それから11日後の8月14日、我が家につくる君が来て3週間。外来で経過を診てもらう予約が入っており、酸素ボンベを背中に、つくる君を前に抱っこして、電車で横浜の病院まで3人で出かけて行った。

外来で診てもらうと、血液中の酸素濃度がかなり下がっているとのことで、急遽そのまま入院する事になる。原因ははっきりとはわからないが、とにかく心臓内の弁逆流が増えている 。また、肺の状態もあまりよろしくない。軽い風邪か、ミルクを誤嚥してしまった跡のように白く写っているとのこと。検査をして、酸素の値が回復するまで退院できないと言われる。まだまだ元気そうにしていたし、なんだかとても残念だったが、身体が成長すればいずれは何かしらの処置が必要だったのだからとわかっていたしと思い、でも、少しでも早く退院できればという期待も残しながら2度目の入院生活が始まる。

10/02/2017

Figure Drawing #64




 先日約5ヶ月ぶりにクロッキーを描きに行ってきた。久し振りだったので、線の取り方は雑だったけれど、久し振りのわりに、落ち着いた気持ちで形を見て、描くことができたように思う。

9/19/2017

美術部第20回: 色と自画像

もう前々回の話になるが、マルカフェ美術部で、色を使って自画像を描こうということで、色について簡単にレクチャーさせてもらった。こうすればよかった、あれを言い忘れたなんてものが、レクチャーが終わった後には毎度たくさん出てくるのだけれど、今回も例に漏れず、あーでもない、こうでもないと、騒がしい頭を抱えてしばらく過ごす事になった。その中でも、気になっていることのひとつに、色の相対性というものがある。

色を使って絵を描く上で(というか、光を表現する上で、というべきかもしれない)とても大事な要素の一つであると思っているのだけど、要するに、人の目は必ず相対的に色を見ているはずなので、何に対して青いか、とか、赤いかということを、認識する必要があるという事だ。例えば、人の顔だと、頬や耳や鼻先が赤味がかっていることが多いが、その部分の色だけを抽出してみれば、赤というほど強い色でもなく、光によっては朱色っぽいグレーということもある。その関係性が正しく成り立っていれば、実際の色彩とかけ離れていても、目はリアリスティックであると認識することもできる。明るさを表現するために、影に工夫したりするのも、この相対性があるからだ。補色を使って立体感を表現するのは、実際の色の仕組みを利用しているということもあるが、相対的に目が立体だと認識しやすいように分かりやすい方へ導いているという側面もある。また、だから、と言っていのかわからないけれど、写実的に色で表現する時、真っ黒や真っ白はそのままでは滅多に使わない。何かに対して黒かったり白かったり見えるだけで、実際には黄色味がかっていたり、青味ががっていたりするからだ。

と、ここまで書いてみて、やっぱり文章じゃ分かりにくいなと思った。今度機会があったら、色の講座第2回をやらせてもらおう。

8/03/2017

ツクル





我が家に新しい家族が出来たというニュースは、そろそろ風の便りで届いた頃だろうか。
2017年5月4日,ちょうど1年前に亡くなった彼の曾おばあちゃんの誕生日の前夜に(役所の関係で記録上の誕生日は別の日になっているけれど)2857gで生まれてきた。

名前は 造(つくる)。

芸術に関わらず何かをつくる喜びや楽しさに触れて欲しいという願いから付けられた。
まだ生後3ヶ月、まだまだ何もわからない。無邪気に日々成長してくれている。あっという間という気もするし、いろいろあったので長かったという感覚もある。2ヶ月近く入院し、そのあと病院に近い妻の実家に1ヶ月近く居たため(その間もほぼ毎日通っていたので顔は合わせていたが)我が家に来たのはほんの1週間前。本当の生活はまだ始まったばかり。

ここらでちょっとつくる君の身体のことを記録も兼ねて紹介したい。


6/26/2017

美術部第18回:たべもの


第18回目のマルカフェ美術部は再び食べ物をテーマに。今回は調理前と調理後、食事中と段階的に描きました。

近頃はなかなか私生活に余裕がなく、変な闇の力を出してしまわないかと心配したけれど、描き始めてみたら不思議と心が澄んでいく感じがあって、あぁ楽しいなぁと、しみじみ噛みしめるように、シンプルに描くことを楽しめた。

こんなことを改めて言うのも変かもしれないけれど、文字通り雨の日も風の日も、長い間絵を描いてきてよかったなぁと、バカみたいに最近思う。そして、これから先何十年といったいどんな絵が出来ていくのかを、想像するとワクワクする。そんなふうに思えることに出会えた自分は本当についてたなと思う。人生も環境もフェアなんかじゃないし、辛いことも悲しいことも起こる。世界中は不平等で満ちている。しかし、その全てを飲み込み、力に変え、前に進むもうとする自分がいる。その中心にはいつも絵を描くという行為がある。絵を描いているのか、絵に描かされているのか。

そして、僕は絵を描くことをとおして、答えのない疑問を熟孝していきたいし、答えのないものを形作っていきたい。目で観察して描いてきたからこそ、目に見えない隠された深みのようなものに美しさを感じるし、見えないものを想像する力を大事にしてほしいと願う。幸せそうに見える人が全く問題なく生きてるはずもないし、辛そうに見える人が辛いばかりでもないのだ。眼に見えるものばかりで判断してないで、想像しろよバカヤロウと、アツく叫びたい時が僕にだってある。とはいえ、妄想しすぎて現実が見えなくなっても困るけれど。

そんなことを思いながら、ししゃもの頭にかじりつき、腹から出てきた命のカケラたちに想いを馳せる。

5/22/2017

Figure Drawing #63




四谷クロッキー会。へとへとだったけれど、こんな時こそこれまで培ってきたDiscipline(規律?)が、規則正しい生活が、現実的な行動が、自分を支えてくれるはずだと思って頑張って行ってきた。ふと気がつくと、心はふわっと何処かへ行ってしまう。さらにくたくたになったけれど、お酒の匂いの漂う帰りの電車を降りる頃には、少し清々しい気持ちになってた。


5/20/2017

美術部16回:線



先月のMalucafe 美術部では「線」についてやりました。


単純に線といっても色々ある。わかりやすい輪郭線、シワなどのディテールの線もあれば、陰影の境目の線もあるし、線の集合で影を表現することもできる。上の1枚目の絵もある意味では線だけで描かれている。


4/24/2017

Figure Drawing #62




4ヶ月ぶりのクロッキー。今まで行っていた会が開催しなくなったりで、新しいところに。ずっと行きたくて、でもタイミングが合わずだったのだけど、先日やっと行けた。四谷3丁目にあるひっそりとしたバーで、わりとリッラクスした雰囲気の中、でもしっかりと描くことができた。

動き続けるムービングポーズは、描きたいのにどんどん変わっていってしまうことについていけず、なかなか形あるものに落とし込めなかったのだけれど、今回隣の人のやりかたをみたりしているうちに、あーそうかと、思うことがあって、すこしだけコツをつかめた。(2枚目がムービング)。

今までは見えたものを忠実に描かなければと思いすぎていたのだと思う。見えたポーズを一生懸命記憶してなるべく早く再現しようと頑張っていた。しかし、当たり前の事ながら記憶はすぐに消えていき、新しいポーズによって上書きされていってしまう。そこで、今回印象に残ったポーズを描き始めのきっかけにだけ使い、あとは雰囲気を感じながら、想像で描き進め、手が止まったら、動きをみてインスピレーションをもらって、という具合に結構想像を中心に、ある意味適当に描いたらいつもより形になった。

これが正解なのかどうかはよくわからない。でも、いつも戸惑いと、もどかしさと、無駄に消費される紙ばかりが残っていたムービングポーズを、楽しんで描くことができたというのは、とても大きな収穫な気がする。

4/15/2017

じゃず


最近はスケッチはもっぱらInstagramで、告知はfacebook。このブログは文章を書きたい時用に特化させようと思っているのだけど、文章を書くのはなにぶん時間がかかるので、アップする頻度がぐんとおちてしまった。それでも月に一度くらいはちょこちょこっと何かしら書きたいと思っているのだけれども、もうそろそろ前回のPostから1ヶ月。あいかわらず日頃から頭の中はいろいろなことでいっぱいなのだけどね。いざ文章で書こうと思っても全然まとまりません。ありがたいことに仕事は順調だし、生活も安定してる。欲をいえばもうちょっと何もしない時間があるといいかなと思うけれど、やりたいと思うものごとはよく重なる。限られた時間の中で、自分のやりたいことが自分自身を取り合って引っ張りあっている。時間は限られている?物理的には一方方向に皆平等に均一に進んでいるようにしか、少なくとも人間には感じられないし、表現することができない。実際は感情や精神によって無限の方向性や密度をもって存在しているようにも思うけれど、それについてはまたいつかじっくり書いてみたい。兎にも角にも時間はうまく味方につけておきたい。


3/18/2017

オモイ

気がつけば2月はあっという間に終わり、3月も後半戦。仕事が忙しくなったり、風邪をひいたり、あんなことやこんなこともあって(詳細割愛)、とにかくいろんなことにバタバタしていたら、時間ばかりが過ぎて、少し前に思ったり感じたりしたあれやこれやがもう全然思い出せない。時間に追われていると、余計なことを考えないのである意味楽な部分もあったりするのだけれど、ちゃんとものごとを感じられる余裕がないと、自分の生きてきた軌跡のようなものが、跡形も無くなってしまうようで少し焦る。どちらにしても、いずれは自分の軌跡なんて跡形も無くなってしまうのに変わりはないはずなのだけど、しかしそれでも多少はもがきたい。

仕事は楽しい。それ自体も昔に比べたら格段に楽しくなった。たとえつらい仕事が続いても睡眠と食事さえ満足に取れていればやっていけると思えるモチベーションは増える一方だ。むしろ仕事だけで満足してしまうようになることを恐れている。という思いがある以上、仕事だけでは満足できないのだろう、とも言える。

あいかわらず取り留めのない思いであふれている。時間や愛や優越感や劣等感や嫉妬。人間なんてと思ったり、いやいやそれでも人間だってと思ったり。こうやって吐き出していることで自分の存在を残したつもりになりたいわけでもない。ああ、いいものが描きたい。結局のところそれだけなのだ。しかしそのためにはあらゆる全てが必要なのだ。

1/31/2017

美術部第13回: 墨絵とコンストラクション










今回は墨絵の回でした。書道を習っている部長のナカノさんの指導のもと、今回もとても楽しく自由に絵を描かせて頂きました。墨は水彩ともアクリルともまた違った滲み方、乾き方をするようで、その奥深さと難しさに程よく翻弄されたました。墨は一度塗られてしまった箇所は、消すことも重ねることも難しいので、もっと空白を意識した制作が必要だったなと思いました。新しいメディアは脳が開く感じがして気持ちがいい。呆然と手が止まってしまう時間が多かったけれど、楽しかった。写真など詳しくはマルカフェのブログにて。


さて、今回から活動のはじめの30分ほどをもらって簡単なドローイング講座なるものをさせて頂きました。自分のもっている知識を共有することで、自分自身の中にある情報を整頓しつつ再確認し、またこれを機に、他の人の持つ知恵なども少しずつ吸収できたらというのが、個人的な狙いです。

実際の講義の内容も同じくマルカさんの書いた文章がとってもわかりやすく読みやすいのでそちらを参考にしていただくとして、今回説明したConstruction または Structureとも呼ばれる描き方を、学校で学んだ時の絵が写真として記録されていたので、そちらを公開します。対象を面で捉えて、シンプルな立体的図形として絵に落とし込んでいくという手法です。下がGestureと呼ばれるもので、30秒ぐらいの短い時間に、対象のエネルギーの流れを読むというような見方を訓練するための手法。どちらも、なんともう15年も前の絵。なつかしい。

これからこのような形で自分のもってる知識を少しずつ共有していきたいと思ってるわけですが、そしてこれは個人的にとても大切だと思っていることなのですが、これらの知識は所詮知識なので、これによって硬くなりすぎないといいなと思います。スポーツ選手がフォームを改善しようとして硬くなってしまうことがあるように、意識的に知識に合わせて体を動かそうとすると自然と体は硬くなってしまいます。ダンサーが繰り返し繰り返し練習をして、最終的には無意識から導き出される自然な動きに、観る人が心を動かされるように、絵もこれらの知識はあくまでガイドの一つで、これらを経験を伴った知恵として体になじませ、いざ自由に好きなように描くという時に、潜在的な心を開く助けにならなければ意味がないなと思うわけです。別にみんなに同じように絵を描いて欲しいわけでもないし。まぁ要するに絵を楽しく描く助けになればいいんですけれど。









1/23/2017

キセイ


只今実家に帰省中。
実家って暇だ。日常の枠組みから外れて、突然やってくる豊潤な時間。
そして、ちょっと近所を歩き回ると、過去の記憶を呼び覚ますスイッチがあちらこちらにあって、あぁ、あの時は本当に自分の事で精一杯だったのだな、と甘酸っぱい記憶に浸り、なんだかんだで自分も大人になったなぁと思う反面、また50歳くらいになった時には、今の自分がどれほど小さい人間かを思い知るのだろうかと、思わずあたりを見渡してしまう。

こんな37歳になるとわかっていたら、もうちょっと余裕を持って生きられたのになぁと思うけれど、知っていたらつまらないし、努力も怠って、今いる地点にはたどり着けないわけだから、よくできている。

みんな与えられたものの中で一生懸命工夫をしてなんとかやっている。時間もお金も能力も物質も。その工夫に愛を感じる。環境は人それぞれ違う。平等でもない。生まれる地も家族も選べない。人に会っていろんな話を聞けば聞くほど、みんなそれぞれになんとかその与えられた環境の中で、もがき、生きているとわかる。できるならばより良いところへ。僕らに埋め込まれた完全になろうとする欲と、"我ここにあり"という自分の存在意義を求める力に振り回されながら。つまるところ、行為そのものに善悪はないのだなとつくづく思う。その時代時代の社会的なルールやモラルはあるし、社会で生きていく以上、それはとても大切なことではあるけれど、個人的なレベルで言えば、極端な話、人殺しだってなんだって、行為そのものからその善し悪しは判断できないのではないか。それよりも、その行為を呼び起こした潜在的な心の方向性こそが大事なのではないかと思う。それを表面的な行為だけを指摘して争いあっていても消耗するばかりで何処へも行けない。まぁ争いもある意味では必要なエネルギー発散の方法で、こうなるように定められていると言えばそうなのだろうけれど。


昔よく遊んだラクガキだらけの遊具がぽっかりなくなった公園の丘や、実家で丸くなる21歳の化け猫を見ながら今日も物思いに耽る。そして、あいかわらず、自分の欲望は底なしだなと、怖くなる一方、生きる力の強さに期待も膨らむ。






1/07/2017

ジカン



少し前に書いた好きになるということは選べないとか、意志の力とか愛とかの話の続きを少し。

キーワードは時間。
ちょっと大掛かりな話になってしまうけれど、時間とは神様がすべての生きとし生けるものに平等に与えてくれる愛、もしくは神様とは時間そのものなんじゃないかと思ったことが少し前にあって、今でもよくそう思う。
わりと多くの物事を時間は解決してくれる。悲しい出来事も辛い気持ちも、もちろん嬉しいことも楽しいことも、時間がたてば過去の出来事となり、ボヤけていって、いずれどうでもよくなる。だからこそ、どうしても時間だけではどうにもならないことは、しっかりと自分で向き合わなければならないのだけれど、とにかく時間さえ立ってくれれば、その間なんとか暮らしを続け、生き延びることができれば、たいていの物事はなんとかなる。ということをある程度生きていて学んだ。

時間さえ動いていてくれれば大体なんとかなるのだ。
特に辛い時、視野はどんどん狭くなっていって、このままずぅっと辛いのが続くんじゃないかという気になるが、そんなことはない。時間が経てばその辛さに慣れることもあるし、辛さの原因自体がなくなることも多い。
それで、時間の動きを、世界の変化を、どうすれば一番実感できるかと考えてみると、そもそも頭の中の思考は、時間が動いてなければ動かない。つまりは、どんなに辛い思いの中にいても、そこに思いがあるということ自体が時間が動いていることの証であると言える。
そう思うと、すぅーっと肩の力が抜けて、そうか、何もしなくても、こうやって時間が動いているのだから、僕は大丈夫だと思うことができる。一種の暗示のようなものだと思うが、宗教などで愛を語るのも基本的には同じ原理だろうと思う。自分の思いや感情の中に、神様の存在を、その愛を感じることで、満たされ、救われるというわけだ。僕が季節の変わり目や、水の流れや、木の葉や花びらが舞うのをみるのが好きなのも同じ理由かもしれない。

時間をかければいいというわけではないが、時短にこだわれば愛情は希薄になるし、時間に余裕があれば込められる愛情も、焦って余裕がなくなれば疎かになる。やはり、愛と時間は密接に関係しているのだ。

宇宙が広がり続けているから、時間が前に進むという考え方があるらしい。宇宙全体が神様そのものだとすれば、神様は大きくなり続け、その中で僕たちは動き、感情や思いも動く。
そうしてその時々の思いが、心のずっと奥の方にある説明のつかない思いが、人を動かし、縁を結び、時代を動かしていく。そこには人間に意識や意志が生まれるずっと前から潜在意識に埋め込まれた何かとてつもなく大きな力が関係しているのかもしれない。


今この瞬間何を好きになるかは選べない。それはその瞬間に至る前に決まっている。それを理屈が勝手にあとから付いてまわっているのだと思う。
であるからこそ、今好きな物や人を、それを共有できる人たちをとても愛おしく、大切に思う。
若い時、まだ自分という存在を手放しに委ねられる人に出会う前は、好きになった気持ちをどうすればいいのか分からずに混乱した。自分が男だということも少なからず関係しているかもしれないけれど、とくに自分の性欲にはいつも惑わされ、人を傷つけ、同時に自分も傷つけてきたように思う。今は男でも女でもあぁこの人は好きだなぁと思ったら、その先のゴールのようなものを必ずしも目指す必要はないし、大人として一定の距離は必要だと思うけれど、素直に大切に接することができる。怖がらずに、自分はあなたのことが好きですよ、と行動に表してもいいんだと少しずつだけれど思えるようになった。それが次の縁を生み、時間を推し進め、世界を変化させ続けていくのだ、と思えるから。

1/02/2017

トリドシ

あけましておめでとうございます。


2017年は今までに少しずつ植えてきた変化の種が、大きなうねりを持って全てを巻き込みながら飛び出してきそうな予感です。楽しみでもあるし、怖くもある。


しかし、日本に帰ってきて丸3年経ち、同じところをぐるぐるしながらも、生活のリズムというか、枠組みというか、多少の変化や揺れに対応出来る土台のようなものが、少しはできたんじゃないかと。これから、どんなに忙しくなっても、自由な心を亡くさずに、時間を味方にしていけたらいいなと思います。


2006年の戌から始まった干支の絵もやっと一回り。十二支揃いました。さて2周目はどうなることやら。