少し前に書いた好きになるということは選べないとか、意志の力とか愛とかの話の続きを少し。
キーワードは時間。
ちょっと大掛かりな話になってしまうけれど、時間とは神様がすべての生きとし生けるものに平等に与えてくれる愛、もしくは神様とは時間そのものなんじゃないかと思ったことが少し前にあって、今でもよくそう思う。
わりと多くの物事を時間は解決してくれる。悲しい出来事も辛い気持ちも、もちろん嬉しいことも楽しいことも、時間がたてば過去の出来事となり、ボヤけていって、いずれどうでもよくなる。だからこそ、どうしても時間だけではどうにもならないことは、しっかりと自分で向き合わなければならないのだけれど、とにかく時間さえ立ってくれれば、その間なんとか暮らしを続け、生き延びることができれば、たいていの物事はなんとかなる。ということをある程度生きていて学んだ。
時間さえ動いていてくれれば大体なんとかなるのだ。
特に辛い時、視野はどんどん狭くなっていって、このままずぅっと辛いのが続くんじゃないかという気になるが、そんなことはない。時間が経てばその辛さに慣れることもあるし、辛さの原因自体がなくなることも多い。
それで、時間の動きを、世界の変化を、どうすれば一番実感できるかと考えてみると、そもそも頭の中の思考は、時間が動いてなければ動かない。つまりは、どんなに辛い思いの中にいても、そこに思いがあるということ自体が時間が動いていることの証であると言える。
そう思うと、すぅーっと肩の力が抜けて、そうか、何もしなくても、こうやって時間が動いているのだから、僕は大丈夫だと思うことができる。一種の暗示のようなものだと思うが、宗教などで愛を語るのも基本的には同じ原理だろうと思う。自分の思いや感情の中に、神様の存在を、その愛を感じることで、満たされ、救われるというわけだ。僕が季節の変わり目や、水の流れや、木の葉や花びらが舞うのをみるのが好きなのも同じ理由かもしれない。
時間をかければいいというわけではないが、時短にこだわれば愛情は希薄になるし、時間に余裕があれば込められる愛情も、焦って余裕がなくなれば疎かになる。やはり、愛と時間は密接に関係しているのだ。
宇宙が広がり続けているから、時間が前に進むという考え方があるらしい。宇宙全体が神様そのものだとすれば、神様は大きくなり続け、その中で僕たちは動き、感情や思いも動く。
そうしてその時々の思いが、心のずっと奥の方にある説明のつかない思いが、人を動かし、縁を結び、時代を動かしていく。そこには人間に意識や意志が生まれるずっと前から潜在意識に埋め込まれた何かとてつもなく大きな力が関係しているのかもしれない。
今この瞬間何を好きになるかは選べない。それはその瞬間に至る前に決まっている。それを理屈が勝手にあとから付いてまわっているのだと思う。
であるからこそ、今好きな物や人を、それを共有できる人たちをとても愛おしく、大切に思う。
若い時、まだ自分という存在を手放しに委ねられる人に出会う前は、好きになった気持ちをどうすればいいのか分からずに混乱した。自分が男だということも少なからず関係しているかもしれないけれど、とくに自分の性欲にはいつも惑わされ、人を傷つけ、同時に自分も傷つけてきたように思う。今は男でも女でもあぁこの人は好きだなぁと思ったら、その先のゴールのようなものを必ずしも目指す必要はないし、大人として一定の距離は必要だと思うけれど、素直に大切に接することができる。怖がらずに、自分はあなたのことが好きですよ、と行動に表してもいいんだと少しずつだけれど思えるようになった。それが次の縁を生み、時間を推し進め、世界を変化させ続けていくのだ、と思えるから。