8/05/2020

寛容は不寛容に対しても寛容になるべきか



長い梅雨が終わり、夏がきた。山のようにでっかく、海のように広い心を持ちたいと思っているけれど、自分の小ささを日々痛感する。そもそもどうして大きい心を持ちたいと思うのだろう。

7/06/2020

大きな絵


2ヶ月くらいかけて描いていた大きな絵がひとまず完成した。
訳あって公表することはできないのだけれど、今までで一番大きいと思う。
去年8x3メートルというのを2枚描いたけど、今年は1枚で14x6メートル。
別に大きさ自慢をするわけではないし、大きければいいわけでもないが、大きさ故の大変さと大きさからくる満足感は確かにあるもので、ふぅっと大きな息が自然と漏れる。

なかなか最後の方まで全体像が頭の中で掴みきれず、本当にこのまま進めていてちゃんと完成するのかと何度も不安になった。面白いもので、長い時間かけて同じ絵ばかり見ていると、日によって見え方が変わり、ものすごく自信たっぷりにいられる時と、不安でしょうがない時があって、自分の体調が絵を通して見えてくるような気がする。同じことを繰り返し繰り返し語り続ける聖書が日によって違うメッセージを届けているように見えることに似ているかもしれない。禅の瞑想にも似たようなところがある。書いたことはないけれど、長い時間をかけて書く小説なんかも同じ効果がありそうだ。要は外にある事象を通して内なる世界を見ているわけだけれど、そこにある軸みたいなものの性質が似ている気がする。

いや、しかし、本当に完成してよかった。
大きな仕事を終えると身軽になってなんかいろんなことができるような気がするのだけど、気がするだけで、あっという間に日常は戻ってくる。でもそれでいいんだと思う。

6/02/2020

空間を描くということについて



先日、オンライン美術部の題材としてマルカフェ店真を送って頂いて、360度レンズにまるような形でを描いた。前からこうやって個人的な空間をこまごま描く作業が好きで、自分の家や、人の家、アーティストのアトリエとか、たまに描いてきた。

題材も手法も特に珍しいものではない。
だから描き方についての明は割愛するとして、どうしてこの作業が好きなのか考えてみることにした。


を描くという職業がら、どうやってものが見えているのかと不思議に思われることがある。自分も自分より上手い人たち(星のほどいる)のことを同じように思う。

人のことはよくわからないが、自分に関していうと、ものを見ている時は、を描く描かないに関わらず、“把握”しようとしている。どのようにその空間に存在しているのか。もっといえばその空間において、ものがある領域とものがない領域の関係性みたいなものを延々とみている。距離とか角度とか形とか質感とか理由とか因とか歴史とか役割とか根とか思想とか哲学とか、そういうものを総合的に把握しようとしけている。

ものが一つそこにある(もしくはない)ということは、そういういろんな要素をてそこに存在(不在)するのだ、ということまで常に考えているわけではないけれど、その片のようなものを感じけているとは思う。

そして、を描くという行為は自分にとって一番しっくりくる、その把握のための作業なのだ。文筆家が文章に書くことでものごとを認識するように、を描くことでその空間を自分の中に取り込んでいく。そのあとも化しけてしまうので、それで終わりではないのだけれど、ひとまずその瞬間において自分の中にすとんとおさまる。

だから部屋をぐるっとひとまわり描くと、とても安心できる。まさにふぅっとひと息ついてほっとできるのだ。真ではなく直接その場でみて描く方が好ましいけれど、とにかくそこのあるものをみて、それについて思いを馳せ、そしてに落とし込む。必ずしもリアルに忠実でなければいけないわけではなく、その関係性が自分にとってしっくりきたら、それでいい。そして、それができるとよくれる。

5/08/2020

みどりのこ

今年もみどりの日につくるさんが誕生日を迎え3歳になりました。

あたりまえかもしれないけれど、0年目も1年目も2年目も3年目も自分の心持ちがぜんぜん違う。

何はともあれ元気であることはありがたいことだ。いろいろ書こうと思ったけれど、とりあえずこれだけ。

4/03/2020

言いたいことは沢山ある




でも、いま言わなくちゃいけないことはそんなにないし、うまく伝えられる自信もあまりない。なんとか思いを言葉にして、うまく伝えられたとしても、相手に理解や共感をしてもらえるとは限らない。そもそも、順を追って上げていったら、実は意外とそんなに言うこと自体ないかもしれない。

何を言っているのはよくわからないでしょう。
ブログを書くときに、よく思うことがらです。

今いろいろと大変な世の中ですね。実際の病気の脅威よりも、もうそんなに簡単には壊れないだろうと思われていたシステムが不安という感情の渦によっていとも簡単に壊れていく様に何か不思議な気持ちになります。しかし思えば世界が慌てる時はいつもこんなものかもしれない。株価だっていつも人の不安で簡単に暴落する。


いつもすぐそこに死や痛みはある。たった今このときだって、コロナ以外の病気や事故で死んでいる人は沢山いることだろう。交通事故を一つ一つ全て事細かく報道したら、人はそれなりに不安になって車に乗らなくなるのか。死を怖がるだけではなく、ちゃんと認識していて生きることで、生きているという当たり前は、不思議な輝きを持つことになる。明日生きてても死んでも後悔しないように。自分の頭がおかしくなってしまった時と、子供の心臓が止まってしまった時、この二つの出来事を通して、いつもいつも繰り返し繰り返し自分に言い聞かせていることであるが、平和が続くほど欲が出て薄れてしまう。言うに易く行うは難しである。どんなにかっこつけて、覚悟しているつもりでも、いざ身の周りに死が近づけば、それはもう目も当てられないほど慌てふためくに違いない。なぜか日頃から、自分の生命の終焉のような夢をみて、受け入れられずにバタバタする。できることなら穏やかにいきたいものである。


我が家はみんな元気です。

3/07/2020

21番目



今更ながらダウン症という病気について自分なりに書いてみる。

ダウン症は、21番目の染色体が正常では2本のところが3本存在するという病気である。染色体というのは、ざっくりいえば遺伝子の入れ物のことで、人間の場合は全部で23対、46本ある。その特徴ごとに便宜上番号が付けられており、その21番目が1本多いというのがダウン症というわけだ。

さて、染色体が1本多いということは、身体を生成するための遺伝の命令が過剰に存在するわけで、結果、様々な身体的特徴を生ずる。

21番目と区別されてはいるものの、具体的になにがどこにどう出るかというのは、現代の医学でそれほど解明しているわけではなく、ダウン症という病気の条件は21番目の染色体が1本多いというだけで、そこに重度や軽度という判別はない。正常な遺伝子を持つ人間の優劣を遺伝情報だけから区別することができないことと同じだ。染色体異常に起因して発生する合併症ごとに、例えば重度の心臓病を持って生まれたり、軽度の視覚障害を持ったりするが、たとえ多くの重度の合併症を持っていても、遺伝子レベルで重度のダウン症という診断にはならない。このことを強調する医師が多い理由は、例えば重い合併症を多くもっているからといって、全ての能力の発達に見切りをつけてしまうべきはなく、本来持っているはずだった能力の成長を見落としてしまっていけないからだと考える。

ダウン症によくみられる身体的特徴として、例えば低緊張と呼ばれる筋肉の緊張の弱さがある。これにより体が柔らかく、運動が苦手で疲れやすい。また半数近くは先天性心疾患を持って生まれ、中軽度の視覚障害があったり、聴覚障害があったり、甲状腺機能に異常が出やすかったりする。また知的発達遅滞も一般的で、特に言語の獲得には時間がかかると言われる。しかし、どの特徴においても、かなり大きなばらつきがあり、染色体疾患というのはひとくくりにまとめるのがとても難しいことがわかる。それは、そもそも遺伝のメカニズムの研究自体がまだまだ未熟な領域で、遺伝と能力と環境(教育)の関係が実に複雑だからだと思う。たとえば、母親の遺伝情報Aと父親の遺伝情報Bが組み合わさったABという子供が、Cという環境の中で育った場合に、それぞれの遺伝情報がどのように環境にさらされていくかで、 AxBxCの掛け算のような形で結果が変わってくるわけだけれど、その遺伝情報がAABという具合に過剰な状態で存在することを考えるとその複雑さが少し想像できるのではないかと思う。その平均値の振れ幅の大きさ自体も、染色体疾患の特徴と言えるかもしれない。

と、ここまでつらつらと書いてみたけれど、これぐらいのことは当然ながらちょっとネットで検索すればいっぱい出てくる。つくる君がダウン症の診断を受けた時にも、当時の担当医にダウン症の子がかかりやすい病気のリストのようなものを渡されたのを今でもよく覚えている。こういう客観的統計的事実みたいなものは、結局のところ他人事になってしまい、平均のばらつきが大きいことも相まって、意味があるような無いようなものになってしまう。例えば、日本人はこんな人間だ、みたいなことにあまり実態も意味もないことと同じように、とまでは言わないが、あくまでざっくりとした傾向と対策みたいなことになる。


では、つくるくんはどんな子なのか。まだ3歳前でわかることなんてほんの一握りだし、一人っ子なので比較することもできないけれど、それはまた今度書いてみたいと思う。

2/01/2020

2020

2020もゆるりとはじまって、変わりがあるような、ないような平和な日々を過ごしています。

仕事はまぁぼちぼち順調で、程よく楽しい仕事があり、程よく淡々としたいつも通りの仕事がある。スケッチを描く時間はやや少なめで、希望よりも少し忙しく感じているのも、いつも通りといえばいつも通り。

何はともあれ、いい絵がかければそれでいいのだと思っているのだけれど、それがいつどこからやってくるかは、やっぱり全然わからずで、できる事を一生懸命やるしかなく。いい絵が描けないとへこみ、いい絵が描けるとちょっと元気になる。忙しく感じる気持ちと実際の忙しさには実は大きな乖離があるのでは?と疑っている。忙しすぎるのは嫌だけど。

こんな感じで2020年もやっていきます。今年こそは念願のプロジェクトを完成させ、あわよくば……と心の炎は未だ消えずにここにちゃんとあるのです。

12/29/2019

ネンマツ

大掃除とか家の片付けとか溜まっていたタスクとか、いろいろ終わらせることのできたプロダクティブな師走だったけれど、今年完成を目標にしていた肝心のプロジェクトは終わらなかった。

本当の意味での制作は間があくとどうしても億劫になる。これのどこがそんなによかったんだろうと、少し前の自分に疑問が湧き、自信をなくし、土台から立ち上げ直さなくちゃいけなくなる。そして身の回りのこととか、実質的な仕事とか、手につくことから片付けようとしてしまう。1日中向き合っても全く進まないこともある制作に時間を費やすよりも確実に終わることからやっていた方が、そりゃ気が楽だもの。

いつまでも逃げていちゃ何も前に進まない。でも、それでもいいと思えるようにもなった。

11/30/2019

秋も終わり

半年ぐらい前に、今まで描いた中で一番サイズが大きくて(縦3横15メートル)、会社の名前的にもかなり大きな仕事があった。要はその会社のオフィス内の壁画を描いたのだけれど、その会社に行けばみられるが残念ながらその絵も会社の名前も公開することはできない。10月にその会社に行ってそこの社員の前でちょっとしたスピーチをするという機会をもらった。

久しぶりにアーティストとして自己紹介をして、自分の作品について話をさせてもらったのだけれど、2015年の個展以来そういうことをしっかり考えたり、まとめたりしていなかったなということに気がついた。(急だったし、久々に英語だったということもあってそのスピーチは個人的にぼろぼろだった。)5年近く時が経てば、考えていることもアートに対する姿勢も変わるものだなと思い、近々ちゃんとアップデートしたいと思う。


10/31/2019

インクトーバー



Inktober...
Ink とOctoberをくっつけた造語で何年か前から10月になるとよくみるハッシュタグ。要はモノクロインク(デジタルも◯)の強化月間みたいなものだ。できるだけコンスタントに同じ間隔で描くことで良い習慣を身につけようというわけで、友達もわりと多く参加しており、今まではなんとなくみているだけだったけれど、いいなぁと思う絵をみかけてインスピレーションを感じたので、えぃっと参加してみた。

やっぱりというかなんというか、習慣からくる面白さみたいなものがある。自分は1日置きに奇数日だけ描いていたんだけど、続けるうちに身軽さが生まれ、考え込まずにひょいっと出てきたアイデアを、身体に馴染んだラインで軽快に描く楽しさがあった。

気になる人はinstagramへGo!