只今実家に帰省中。
実家って暇だ。日常の枠組みから外れて、突然やってくる豊潤な時間。
そして、ちょっと近所を歩き回ると、過去の記憶を呼び覚ますスイッチがあちらこちらにあって、あぁ、あの時は本当に自分の事で精一杯だったのだな、と甘酸っぱい記憶に浸り、なんだかんだで自分も大人になったなぁと思う反面、また50歳くらいになった時には、今の自分がどれほど小さい人間かを思い知るのだろうかと、思わずあたりを見渡してしまう。
こんな37歳になるとわかっていたら、もうちょっと余裕を持って生きられたのになぁと思うけれど、知っていたらつまらないし、努力も怠って、今いる地点にはたどり着けないわけだから、よくできている。
みんな与えられたものの中で一生懸命工夫をしてなんとかやっている。時間もお金も能力も物質も。その工夫に愛を感じる。環境は人それぞれ違う。平等でもない。生まれる地も家族も選べない。人に会っていろんな話を聞けば聞くほど、みんなそれぞれになんとかその与えられた環境の中で、もがき、生きているとわかる。できるならばより良いところへ。僕らに埋め込まれた完全になろうとする欲と、"我ここにあり"という自分の存在意義を求める力に振り回されながら。つまるところ、行為そのものに善悪はないのだなとつくづく思う。その時代時代の社会的なルールやモラルはあるし、社会で生きていく以上、それはとても大切なことではあるけれど、個人的なレベルで言えば、極端な話、人殺しだってなんだって、行為そのものからその善し悪しは判断できないのではないか。それよりも、その行為を呼び起こした潜在的な心の方向性こそが大事なのではないかと思う。それを表面的な行為だけを指摘して争いあっていても消耗するばかりで何処へも行けない。まぁ争いもある意味では必要なエネルギー発散の方法で、こうなるように定められていると言えばそうなのだろうけれど。
昔よく遊んだラクガキだらけの遊具がぽっかりなくなった公園の丘や、実家で丸くなる21歳の化け猫を見ながら今日も物思いに耽る。そして、あいかわらず、自分の欲望は底なしだなと、怖くなる一方、生きる力の強さに期待も膨らむ。
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