1/23/2017

キセイ


只今実家に帰省中。
実家って暇だ。日常の枠組みから外れて、突然やってくる豊潤な時間。
そして、ちょっと近所を歩き回ると、過去の記憶を呼び覚ますスイッチがあちらこちらにあって、あぁ、あの時は本当に自分の事で精一杯だったのだな、と甘酸っぱい記憶に浸り、なんだかんだで自分も大人になったなぁと思う反面、また50歳くらいになった時には、今の自分がどれほど小さい人間かを思い知るのだろうかと、思わずあたりを見渡してしまう。

こんな37歳になるとわかっていたら、もうちょっと余裕を持って生きられたのになぁと思うけれど、知っていたらつまらないし、努力も怠って、今いる地点にはたどり着けないわけだから、よくできている。

みんな与えられたものの中で一生懸命工夫をしてなんとかやっている。時間もお金も能力も物質も。その工夫に愛を感じる。環境は人それぞれ違う。平等でもない。生まれる地も家族も選べない。人に会っていろんな話を聞けば聞くほど、みんなそれぞれになんとかその与えられた環境の中で、もがき、生きているとわかる。できるならばより良いところへ。僕らに埋め込まれた完全になろうとする欲と、"我ここにあり"という自分の存在意義を求める力に振り回されながら。つまるところ、行為そのものに善悪はないのだなとつくづく思う。その時代時代の社会的なルールやモラルはあるし、社会で生きていく以上、それはとても大切なことではあるけれど、個人的なレベルで言えば、極端な話、人殺しだってなんだって、行為そのものからその善し悪しは判断できないのではないか。それよりも、その行為を呼び起こした潜在的な心の方向性こそが大事なのではないかと思う。それを表面的な行為だけを指摘して争いあっていても消耗するばかりで何処へも行けない。まぁ争いもある意味では必要なエネルギー発散の方法で、こうなるように定められていると言えばそうなのだろうけれど。


昔よく遊んだラクガキだらけの遊具がぽっかりなくなった公園の丘や、実家で丸くなる21歳の化け猫を見ながら今日も物思いに耽る。そして、あいかわらず、自分の欲望は底なしだなと、怖くなる一方、生きる力の強さに期待も膨らむ。






1/07/2017

ジカン



少し前に書いた好きになるということは選べないとか、意志の力とか愛とかの話の続きを少し。

キーワードは時間。
ちょっと大掛かりな話になってしまうけれど、時間とは神様がすべての生きとし生けるものに平等に与えてくれる愛、もしくは神様とは時間そのものなんじゃないかと思ったことが少し前にあって、今でもよくそう思う。
わりと多くの物事を時間は解決してくれる。悲しい出来事も辛い気持ちも、もちろん嬉しいことも楽しいことも、時間がたてば過去の出来事となり、ボヤけていって、いずれどうでもよくなる。だからこそ、どうしても時間だけではどうにもならないことは、しっかりと自分で向き合わなければならないのだけれど、とにかく時間さえ立ってくれれば、その間なんとか暮らしを続け、生き延びることができれば、たいていの物事はなんとかなる。ということをある程度生きていて学んだ。

時間さえ動いていてくれれば大体なんとかなるのだ。
特に辛い時、視野はどんどん狭くなっていって、このままずぅっと辛いのが続くんじゃないかという気になるが、そんなことはない。時間が経てばその辛さに慣れることもあるし、辛さの原因自体がなくなることも多い。
それで、時間の動きを、世界の変化を、どうすれば一番実感できるかと考えてみると、そもそも頭の中の思考は、時間が動いてなければ動かない。つまりは、どんなに辛い思いの中にいても、そこに思いがあるということ自体が時間が動いていることの証であると言える。
そう思うと、すぅーっと肩の力が抜けて、そうか、何もしなくても、こうやって時間が動いているのだから、僕は大丈夫だと思うことができる。一種の暗示のようなものだと思うが、宗教などで愛を語るのも基本的には同じ原理だろうと思う。自分の思いや感情の中に、神様の存在を、その愛を感じることで、満たされ、救われるというわけだ。僕が季節の変わり目や、水の流れや、木の葉や花びらが舞うのをみるのが好きなのも同じ理由かもしれない。

時間をかければいいというわけではないが、時短にこだわれば愛情は希薄になるし、時間に余裕があれば込められる愛情も、焦って余裕がなくなれば疎かになる。やはり、愛と時間は密接に関係しているのだ。

宇宙が広がり続けているから、時間が前に進むという考え方があるらしい。宇宙全体が神様そのものだとすれば、神様は大きくなり続け、その中で僕たちは動き、感情や思いも動く。
そうしてその時々の思いが、心のずっと奥の方にある説明のつかない思いが、人を動かし、縁を結び、時代を動かしていく。そこには人間に意識や意志が生まれるずっと前から潜在意識に埋め込まれた何かとてつもなく大きな力が関係しているのかもしれない。


今この瞬間何を好きになるかは選べない。それはその瞬間に至る前に決まっている。それを理屈が勝手にあとから付いてまわっているのだと思う。
であるからこそ、今好きな物や人を、それを共有できる人たちをとても愛おしく、大切に思う。
若い時、まだ自分という存在を手放しに委ねられる人に出会う前は、好きになった気持ちをどうすればいいのか分からずに混乱した。自分が男だということも少なからず関係しているかもしれないけれど、とくに自分の性欲にはいつも惑わされ、人を傷つけ、同時に自分も傷つけてきたように思う。今は男でも女でもあぁこの人は好きだなぁと思ったら、その先のゴールのようなものを必ずしも目指す必要はないし、大人として一定の距離は必要だと思うけれど、素直に大切に接することができる。怖がらずに、自分はあなたのことが好きですよ、と行動に表してもいいんだと少しずつだけれど思えるようになった。それが次の縁を生み、時間を推し進め、世界を変化させ続けていくのだ、と思えるから。

1/02/2017

トリドシ

あけましておめでとうございます。


2017年は今までに少しずつ植えてきた変化の種が、大きなうねりを持って全てを巻き込みながら飛び出してきそうな予感です。楽しみでもあるし、怖くもある。


しかし、日本に帰ってきて丸3年経ち、同じところをぐるぐるしながらも、生活のリズムというか、枠組みというか、多少の変化や揺れに対応出来る土台のようなものが、少しはできたんじゃないかと。これから、どんなに忙しくなっても、自由な心を亡くさずに、時間を味方にしていけたらいいなと思います。


2006年の戌から始まった干支の絵もやっと一回り。十二支揃いました。さて2周目はどうなることやら。


12/31/2016

サルトシ

2016年もあとわずか。
いろいろ書きたいことがいっぱいあったのだけれど、時間がなくなってきたし、最後くらい少しゆっくりしようと思うので、また次の機会に。

2017年も引き続き宜しくお願い致します。

12/19/2016

Figure Drawing #61


少し間が空いてしまったクロッキー。せっかく最近気に入っていたところは理由はわからないが開催されなくなってしまい、再開の目処もないらしく、もんもんとしていたので、ちょっと遠いけれど、少し前までお世話になっていた銀座のクロッキー会にお邪魔してきた。

少し鈍ってる感じは否めなかったけれど、楽しむことができました。
スキャン後にコントラストをあげているので見た目にはわからないと思うけど、なんか線の感じが違うなぁと思っていたら鉛筆を間違っていたことに、あとから気がついた。ダンスをやっているせいかとても姿勢が良く、キリッとしたモデルさんで、もっとしっかり描きたかったので、もったいない。

さて、この銀座のクロッキー会も、訳あってたぶん次は行かないかなという気もするので、改めてクロッキー難民です。どっか近くていいところないかなぁ。





12/15/2016

ハナ


ちょうど一年前に個展をさせて頂いた中目黒の美味しいレストラン、シェリールカブレにて12月15日からグループ展が始まります。花をテーマに1点描かせてもらいました。来年1月末までやってます。どうぞ気楽にお食事がてら寄ってみてください。(上は作品の一部。)
I'm in this group show at this restaurant in Tokyo, where I had my solo show a year ago. It goes from Dec 15th till the end of Jan 2017. The theme was simply "flowers," and I just dropped off a freshly made painting. Please swing by if you're around!


12/06/2016

美術部第12回:Still Life

Still Life(静物画)を描こうということで、参加者おのおのに好きなものを持ってきてもらって、テーブルの上にランダムに並べて描きました。

好きなものを描く、というのは僕が絵を描く上で一番土台にしているもの。子供が恐竜だったり、車だったり、女の子だったりを描くのと同じで、自分が何かを好きだと感じた時に、絵を描くという行動が、一番体にしっくりと馴染む。よく見て、認識して、自分というフィルターを通して記録する。逆にいうと、描くという行動を通して、その対象に対する自分の感情を実態を伴った何かとして認識することができる。

またよく思うのだけど、自分が今、何が好きかというのは、自分の潜在意識に結びついていて、好きな理由を理屈的に並べることはできるけれど、結局は好きという感情が先に起こり、あとから意識がそれを正当化しているような気がする。もともともった自分の特性とか、そこに至るまでの記憶の積み重ねが、何を好きになるかを意識するよりも先に選択しているんじゃないか。意識して未来に好きになるように努力することはできるけれど、現時点で好きなものは理屈をともなった意識の選択ではないと思うのだ。

そして、僕たちは思った以上に好きなものでできている。好きなものは正しくみえるし、美しくみえる。好きなものを共有することで、自分自身を共有し、それを否定されれば少なからず傷つく。好きな人が好きなものを好きになり、自分が好きなものと同じものが好きな人を好きになる。そうやって好きの範囲は広がり、その輪の外のものは、興味自体がないか、醜く見えたりする。そうやって好きとか嫌いが世の中の見え方を色付けしていくのに、もともとの感情は常に変わり続ける。好きだと思っていたものにもいずれ飽きがくるし、嫌いだったものでも距離を置けば懐かしく感じたりする。

一方、愛とは意識を伴った選択だ。極端に言えば嫌いなものだって愛することができるわけで、いわば自分の変わり続ける潜在的な感情に対する意思の決定の表明のようなもの。人を、何かを本気で愛することは、好きで居続けることではない。変わり続ける自分の感情を理解し、それでも、注意深く耳を傾け、時間を分かち合い、受け入れ続ける覚悟を持つということだ。そして、好きだという気持ちに意識の力が上乗せされた時の浸透力は凄まじい。


気がつけば熱くなりすぎて絵を描くということから話がすっかりそれてしまったけれど、でも、そんなに関係ない話でもなくて、僕が絵を描くということは、自分が好きだと思ったものに対する愛情表現なのだということが、ここ数年でやっとわかってきたんです。

そんなことを思った美術部第12回。みんなそれぞれに何かを感じて何かを残してくれたんじゃないかと。

11/30/2016

クリエイティブなヒト


気がつけば、もう11月も終わる。
棕櫚への投稿で結構満足してしまって、最近は告知ばかりで文章というものを書いていなかったなと思い立ち、急に書きたくなった。といってもあまり時間もないので、短めに。

近頃、何かと会話に出てきたりでよく考えていること、クリエイティブであるということについて考えてみる。当たり前の前提として、あくまでこれは言葉の定義の話であるので、個人的な解釈に過ぎないということを一応言っておきます。


さて、クリエイティブであるとは、どういうことなのか。もちろん、イラストやデザインといった一般的なクリエイティブな仕業をしている人のことを言いたいわけでは全然なくて。もっと僕の好きな哲学的な話。
いろいろ考えてみたのだけれど、一つの考え方として、僕の思うクリエイティブな人とは、根源的な自由というものを認識することができて、その上で様々な傾向や反動や思い込みから解放された一歩を踏み出そうとしている人、と仮定してみる。


例えば、単純に絵を描くという行動。白いキャンバスがあり、画材は自由に選ぶことができるとする。そこに何を描くかは完全に自由。形も色も、言ってしまえば白いキャンバスである必要もなければ、実は全く何もしなくてもいい。そこには完全なる絶対的な自由がまずある。ということを、本質的に体感し、理解するきっかけが生まれる。はじめはその無の空間の大きさに圧倒されるかもしれない。不安でたまらなくなるかもしれない。いつも何かの限界によって制約されていた中で求めていたはずの自由というものの圧倒的な重さや残酷さを痛感する。その自由を目の前にして、自分の存在が確認できない不安にかられる。自分はその無の一部であり、そのものだ。その自由という空間と同化してふわふわと漂っている。しばらくすると、ふと自分の好きなものや人、自分に与えられた能力、その絵を見てくれる人、今までに描いたことのあるものや、見たことのある絵、憧れの画家や、心を揺さぶった情景といった自分という存在をこの世界に繋ぎ止めていた、地面や壁や天井、いわば自分の心の部屋とでもよべるようなものが見えてくる。それはこの世界に自分が存在しているという安心感を与えてくれる。その自由な空間から離れ、自分で定めた自分という存在の限界が、真っ白に圧倒的に目の前に立ちはだかる無の中を進んでいくための力強い道しるべになる。しかし、その道しるべをよくみると、これまで自分を振り回してきた傾向や反動が数多く含まれていることに気づく。やはり自由でありたいと思い返し、踏みとどまってもう一度真っ白のキャンバスを眺めてみる。どうすればいいかわからない。しかし、どうにか進まなくてはならないということだけは、なぜだかはっきりとわかる。その悪戦苦闘の中で、踏み出そうとしている一歩が、クリエイティブな行動であると、僕は思う。結局、その一歩もある傾向の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、心のずっと奥の方、自分の部屋の深くに隠された扉から、世界の核のようなところに直接つながっていて、それは世界の全てを密かに繋ぎ、そこには白いキャンバスに何を描けばいいかがしっかりと記されているような気がする。

そして、こんなクリエイティブな行動をとっている人は、世界のいたるところで様々なことをしていて、それぞれが少しずつそのつながりを広げて行っているように感じる。僕もそんなクリエイティブな人になりたいなぁ。

11/26/2016

シュロテン

この度、挿絵と文章で参加させて頂いた文芸誌「棕櫚(シュロ)第5号」の発売を記念して、明日からマルカフェで棕櫚展が開催されます。クリスマスまでの約1か月ほど。僕の挿絵も2点あるし、棕櫚も購入できるし、ご飯すこぶる美味しいし、中の人をはじめそこに関わる人みんなで作られていっているような不思議で素敵な空間です。明日27日(日)は13時から開催を記念してちょっとしたイベントもやってるそうですよ。
営業時間をサイトでチェックして是非お立ち寄りください。
http://ameblo.jp/malucafe/entry-12222635192.html

11/08/2016

Listen to Your Heart

奥さんの個展が東京三宿のギャラリーUnicaにて11月8日(火)から13日(日)までやってます。

僕も主に夕方頃からですが11日(金)以外は毎日アシスタントとして在廊予定です。
ぜひ彼女の空間を通して聞こえてくる音を体験しに来てくだい。

Yu's exhibition will start on Nov 8th(Tue) till 13th(Sun) in Mishuku, Tokyo. We successfully installed all the goodies today! Come visit and experience your own sound in her space.

https://www.facebook.com/events/194685860941660/


http://unica.link/events-news/exhibition/1998