Still Life(静物画)を描こうということで、参加者おのおのに好きなものを持ってきてもらって、テーブルの上にランダムに並べて描きました。
好きなものを描く、というのは僕が絵を描く上で一番土台にしているもの。子供が恐竜だったり、車だったり、女の子だったりを描くのと同じで、自分が何かを好きだと感じた時に、絵を描くという行動が、一番体にしっくりと馴染む。よく見て、認識して、自分というフィルターを通して記録する。逆にいうと、描くという行動を通して、その対象に対する自分の感情を実態を伴った何かとして認識することができる。
またよく思うのだけど、自分が今、何が好きかというのは、自分の潜在意識に結びついていて、好きな理由を理屈的に並べることはできるけれど、結局は好きという感情が先に起こり、あとから意識がそれを正当化しているような気がする。もともともった自分の特性とか、そこに至るまでの記憶の積み重ねが、何を好きになるかを意識するよりも先に選択しているんじゃないか。意識して未来に好きになるように努力することはできるけれど、現時点で好きなものは理屈をともなった意識の選択ではないと思うのだ。
そして、僕たちは思った以上に好きなものでできている。好きなものは正しくみえるし、美しくみえる。好きなものを共有することで、自分自身を共有し、それを否定されれば少なからず傷つく。好きな人が好きなものを好きになり、自分が好きなものと同じものが好きな人を好きになる。そうやって好きの範囲は広がり、その輪の外のものは、興味自体がないか、醜く見えたりする。そうやって好きとか嫌いが世の中の見え方を色付けしていくのに、もともとの感情は常に変わり続ける。好きだと思っていたものにもいずれ飽きがくるし、嫌いだったものでも距離を置けば懐かしく感じたりする。
一方、愛とは意識を伴った選択だ。極端に言えば嫌いなものだって愛することができるわけで、いわば自分の変わり続ける潜在的な感情に対する意思の決定の表明のようなもの。人を、何かを本気で愛することは、好きで居続けることではない。変わり続ける自分の感情を理解し、それでも、注意深く耳を傾け、時間を分かち合い、受け入れ続ける覚悟を持つということだ。そして、好きだという気持ちに意識の力が上乗せされた時の浸透力は凄まじい。
気がつけば熱くなりすぎて絵を描くということから話がすっかりそれてしまったけれど、でも、そんなに関係ない話でもなくて、僕が絵を描くということは、自分が好きだと思ったものに対する愛情表現なのだということが、ここ数年でやっとわかってきたんです。
そんなことを思った美術部第12回。みんなそれぞれに何かを感じて何かを残してくれたんじゃないかと。
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