11/30/2016

クリエイティブなヒト


気がつけば、もう11月も終わる。
棕櫚への投稿で結構満足してしまって、最近は告知ばかりで文章というものを書いていなかったなと思い立ち、急に書きたくなった。といってもあまり時間もないので、短めに。

近頃、何かと会話に出てきたりでよく考えていること、クリエイティブであるということについて考えてみる。当たり前の前提として、あくまでこれは言葉の定義の話であるので、個人的な解釈に過ぎないということを一応言っておきます。


さて、クリエイティブであるとは、どういうことなのか。もちろん、イラストやデザインといった一般的なクリエイティブな仕業をしている人のことを言いたいわけでは全然なくて。もっと僕の好きな哲学的な話。
いろいろ考えてみたのだけれど、一つの考え方として、僕の思うクリエイティブな人とは、根源的な自由というものを認識することができて、その上で様々な傾向や反動や思い込みから解放された一歩を踏み出そうとしている人、と仮定してみる。


例えば、単純に絵を描くという行動。白いキャンバスがあり、画材は自由に選ぶことができるとする。そこに何を描くかは完全に自由。形も色も、言ってしまえば白いキャンバスである必要もなければ、実は全く何もしなくてもいい。そこには完全なる絶対的な自由がまずある。ということを、本質的に体感し、理解するきっかけが生まれる。はじめはその無の空間の大きさに圧倒されるかもしれない。不安でたまらなくなるかもしれない。いつも何かの限界によって制約されていた中で求めていたはずの自由というものの圧倒的な重さや残酷さを痛感する。その自由を目の前にして、自分の存在が確認できない不安にかられる。自分はその無の一部であり、そのものだ。その自由という空間と同化してふわふわと漂っている。しばらくすると、ふと自分の好きなものや人、自分に与えられた能力、その絵を見てくれる人、今までに描いたことのあるものや、見たことのある絵、憧れの画家や、心を揺さぶった情景といった自分という存在をこの世界に繋ぎ止めていた、地面や壁や天井、いわば自分の心の部屋とでもよべるようなものが見えてくる。それはこの世界に自分が存在しているという安心感を与えてくれる。その自由な空間から離れ、自分で定めた自分という存在の限界が、真っ白に圧倒的に目の前に立ちはだかる無の中を進んでいくための力強い道しるべになる。しかし、その道しるべをよくみると、これまで自分を振り回してきた傾向や反動が数多く含まれていることに気づく。やはり自由でありたいと思い返し、踏みとどまってもう一度真っ白のキャンバスを眺めてみる。どうすればいいかわからない。しかし、どうにか進まなくてはならないということだけは、なぜだかはっきりとわかる。その悪戦苦闘の中で、踏み出そうとしている一歩が、クリエイティブな行動であると、僕は思う。結局、その一歩もある傾向の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、心のずっと奥の方、自分の部屋の深くに隠された扉から、世界の核のようなところに直接つながっていて、それは世界の全てを密かに繋ぎ、そこには白いキャンバスに何を描けばいいかがしっかりと記されているような気がする。

そして、こんなクリエイティブな行動をとっている人は、世界のいたるところで様々なことをしていて、それぞれが少しずつそのつながりを広げて行っているように感じる。僕もそんなクリエイティブな人になりたいなぁ。

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